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うちとそとの結び目

umidas耕作所のutakoです。

文字の追跡からの発見

最近、自分にとって表現とは?と向き合う機会が増えてきました。私は漢字を時々まじまじみつめることからなにかを想像することがあります。文字の配列やかたち、なりたちや語源にイマジネーションを感じるからです。本屋さんの棚をみつめて気になる文字を追いかけてると気分転換できたり、気持ちが整理できる時もあります。時々、折に触れて国語辞典で意味を調べ直す習慣があったりします。

で、まじまじと「表現」という文字を見つめてた時に、私にとって最近、濃い輪郭として浮かんできてる表現とは「表に現る」ことだとふと腑に落ちるように気付けました。そして、私はこの文字の追跡からの発見により、「表に現る」状態に対してとても興味と関心があり今まで探究し続けているんだと思えました。まさに自分を取り巻く世界のうちとそとを結ぶ結び目を「表現」という二文字に私なりに発見できたのです。

私は長らく、子どもと遊ぶこと、正確には子どもの遊ぶ姿にたちあうことに興味が向かっているのはそのあり様の可能性を探っているのだろうと思えます。

これは自分の子ども時代に表現のルーツがあるからです。

自分の表現のルーツ

私の世界のまなざしが切り替わる瞬間が訪れるのは20歳の時、それが、「子ども」と「アーティスト」との出会いでした。こんなに表現ってありのままで自由でいいんだ。"そう思えるきっかけを与えてくれた運命的な出会い。世界がくっきり色鮮やかに見える瞬間でもありました。

自分の中に次々と浮かぶアイデアをこんな風におもうがままに表現できたとしたら面白いだろうなと急に自分の世界にピントが合った年であり、現在の方向性に人生の舵をきったターニングポイント。それまでの私は実はあんまりこの世界を楽しめてなく、うすらぼんやりしていました。子ども時代の記憶はほとんどなく忘却の彼方。自分自身ができるだけ「表に現れない」ようにという息をひそめる方向性へと表現していたから、その真逆の選択肢を目の当たりにし、急に光があたって輝いてみえて惹かれてしまったわけです。

私は子どもの時代、集団生活にうまく馴染むことができず、学校生活に大変苦労したのです。学ぶことには意欲的なのですが、一斉に動くことへの違和感や受け取る情報の感知が独特だったのか、自分が面白さにピントが合わないと全くやる気が出ず話が入ってこない体質や、ピントが合えば極度に目立ってしまう感覚や、自分のそもそもの興味が周囲の話と噛み合わない状況などなど、いろんなことが負の連鎖をうみだしてしまい、集団からの完全な孤立と徹底した標的になってしまう数年間を体験しました。当時は、言葉足らずでそれを説明することができず、誰にも助けを求めることができませんでした。

脱皮と脱却

ただただ自分のことばが通じない、悲しい現実とその体験は私をどこか閉鎖的にし、殻をつくり、自分が表に現ることへの抵抗は大人になってからも続き、なかなか思うように打ち破ることができずにいました。今の私を知る人にそんな時代があったと話すと驚かれますし、今までの私を知る人は変わっていく姿を見て驚かれます。

今思えば、子ども時代は誰もが感受性豊かな時代。今から考えると、もっと対処の仕方も色々あっただろうし、自分の不器用さと頑なさにも原因があったと思えます。そして、みんながみんないろんな影響を受けながら一生懸命生きてたんやなぁと、ただそれだけやったのかなと、かつての体験を経験としてようやくさらっとふりかえれるようにようやくなれましたが、なかなか自分で自分に与えてしまったコンプレックスや制限や幻想を超えることは難しくそのジレンマは長く続きました。脱皮をくりかえし、ようやく最近になって、力を抜いて等身大に自分を起点にのびのびと表現できる風通しのよさをリアルに体感できるようになれてきましたー!時は一巡り、ようやく脱却!!開放感!!呼吸がかろやか!!身もかろやか!!な心境にたどりつけました。

体感レベルの進化

こんな話をすると、周りには、えっ?充分にいつものびのびしてたじゃないか!?と言われちゃうかもしれませんが、実はそうでもなかったんですよ。今だって進化途中、もっともっと自由になれると感じることがありますもの〜。という代わりに、「うふふ」と笑みを返しています。

そののびやかさはかつて窮屈さを心底身をもって体感したからこそ感じれる喜びであり、その心地よさの追求なのかもしれないなぁと自分にだけわかるこだわりや美感なんかもしれないなとは思ったりします。

伝わらないという経験と伝えたいという熱量、伝わった時の感動は、自分のことばを鍛えるという今の私の表現の特色となる言語化と即興性を磨く動機となってきました。

自分を「表に現さない」ことから始めた表現から「表に現す」表現にシフトし、しばらくすると、「引き出す表現」への関心へと広がり、今は「表に現る」ことに立ち会うスタンスが加わり自分の中で表現の幅や奥行きがうまれてきました。


文字と感覚が繋がる

表に現すと外に引き出すが繋がった契機として、20代半ばに社会教育の現場に身を置けたことと「教育」という言葉がe-ducate(外に引き出す)というラテン語の語源にあることを知ることも影響を与えています。

そこから、私の中で「表現」と「教育」という文字が体感を伴ってごく自然とつながることになり、子どもたちへ遊びの発想からうみだすものや遊びの環境のつくりかたから掘り下げたい「social welfare」の描き方を広げていくことになります。私が学問として社会福祉にひかれたのはその観察技術と人と環境の捉え方がポジティブで体系的で実践的であったことからです。

そして、30代半ば、ここ4年ほど前から、自分の遊びの環境提案(時間と場のデザイン)について一度これまでの実践を振り返る棚卸しの時期を迎えていました。そこに社会福祉の学びからのまなざしはやはりとても影響を受けていたと感じました。

そこで、"遊びの発想から暮らしを創る「あそビルド」(あそび×セルフビルド)"という造語を表現のコンセプトに私はたどり着きます。


今年は特に自分自身の表現の可能性を楽しんでみようと、"遊びの発想の可能性"を初めて自分自身につかってみる実験をしている感じです。今のタイミングで、umidas耕作所に仲間入りしてるのも幸運な出来事で表現の実験のひとつ。

文字と体感の接合

私は「遊びワークショップ」という表現媒体を独自にこれまで実践構築してきましたが、大学で社会福祉を学んでいる時に、"ワークショップ"という考え方に出会い、時間と場のあり方に可能性を見いだしたことが発端です。当時、まだ"ワークショップ"という言葉が今ほどありふれてはいませんでした。アメリカで出版された障がいのある子どもたちのきょうだいのためのアクティビティの教材を手にした時に、これは面白いなと感じて、自分なりにやってみてはどうかと思ったのが私が初めて行ったワークショップとなります。それは時間の捉え方に共感することがあったから。そしてなぜ私が"遊び"にこだわったかというと、それは自然派生的な主体的な場として魅力的だったからです。

当時、私は、大学四年生。心臓病のある子どもたちの保育園に志願して一年間実習生として時間を過ごす機会をいただいており、色々と感じたことをやってみる場を与えていただけたことが"ワークショップ"を自分なりの表現媒体にするその後の道筋へと繋がっていきます。


「表に現す」表現へ

私の表現のルーツは自分も含めて、表に現すこと、内にあるものを外に引き出すこと。

それは本来の状態や輝きを引き出すこと。気づく(意識が向かう)きっかけづくりの媒体となる自身の表現のひとつが"遊びワークショップ"であると捉えています。

自分の発想次第でいくらでも自由にいろいろと創造できる可能性が自分のうちにあることを私は経験を持って実感してますし、そのプロセスが1人ではなかなか気づけない大変さも実感しています。そして、それは最終的に、それでもなお、自分が選択と決断の手綱を持っているというか、自分で気づいて自分で意識を向けることを決めないがぎりは、等身大にリアリティのある変化が訪れないことも痛いほど身にしみていました。ようやく、そのことを自分ごととして、また俯瞰してふりかえることができるようになれた頃。今、子ども時代を生きる子どもたちに、かつて子どもだった頃の気持ちや体験をなにか別のかたちで循環させたいという気持ちが強まってきました。

発想の転換の自由度

そんな矢先、アーティストとして子どもたちに表現してみないか?というチャンスを与えていただくことになりました。それが、「きょうかしょのきょうかしょ」というダンサーのエメ スズキさんが主催されるプロジェクトです。

そして、なんと、その場の中心的素材が「教科書」だったのです。企画の趣旨が「教科書」をアーティストのまなざしから発想転換させ、小学1年生になる子どもたち目線で一緒に遊ぶというこころみだったのです!まさに"遊びワークショッププランナー"としての集大成⁈、最新版の遊びの環境提案!!のチャンス到来♡

この企画書を受け取った時、エメ スズキさんの想いにふれた時、すごく感動しました。自分の子ども時代の声がきこえてきたかのようだったからです。そして、ぜひとも、この構想を実現させたいと!プロジェクトの助成金を受けるための公開プレゼンに仲間入りさせてもらい、「1分間の表現」に挑戦させていただきました。いかにこのプロジェクトが重要かの共感の渦を1分でうみだす。私が今までに取り組んだワークショップの中で最短であり、しかも相手は大人でした。

私は最近になって、自分の創作のプロセスにおきてることを言語化していくことを試みはじめましたが、それまではなかなか言葉にするのに正直迷いがありました。それは、開示することで、言語化してしまった時点でなにか色が褪せてしまうような、まるで別物になってしまうような違和感があったからです。そして、やたら説明が長くなり、くどい小難しい話になってしまわないか、押し付けにならないかの葛藤感からです。

しかし、その自分の幻想からも解き放たれるような「1分間の表現」でした。自分の腹の底からの声で語りかける貴重な体験でした。そういうのもあって、今、note.にこうして自分のなかからうまれる言葉を綴れているのかもしれません。


時間の濃縮と表現

そして、この3年間、0歳1歳2歳の子どもたちと毎日、アーティストとして保育園で交流する仕事に携わらせていただき、彼らの表現に立ち会い環境づくりを保育現場で行えることで、ことばについての解釈や咀嚼がまた進化できたからだと思います。言語以外のやりとりが中心の子どもたちの表現の姿を読みとり子どもたちに応答していくことで活動を共にし、またそこから私が感受し読み解いたものを言語化して大人たちに伝え直す(代弁)ことを繰り返す中で、表現は目の前にあるもの「表に現る」ことをいかに繊細に感知できるか、観察できるか、また言語以外の身体的な要素(声色、表情、態度など)の表現域による共鳴で場が活性化するといいうセンスをひらいていくことになります。言語化同様に自分の表現として言語にたよりすぎない部分を培い磨いていく、そこが時間や場を自然なものとしてその瞬間を循環に向かわせる意識に向かわせる大切な要素となっていくように感じたからです。時間の捉え方がより変身自在になれた気がしました!また、そうして、自身が感受したことを可視化や言語化することで、新たな対話がうまれ、そこから新しい創造の可能性がうまれていくことを知れました。

私は今回の「きょうかしょのきょうかしょ」プロジェクトの中で、「せいかつ」の教科書を担当することになりました。

学校生活(新しい環境)に飛び込む子どもたちに余白を持って一年の見通しを与えるそんな"生活"の教科書。生活を遊ぶ発想をもてたら、どんな環境でも自分なりに楽しむ創造的環境とできるはず。そんな意識の変換を"ぞうきん"を題材に遊ぶことでこころみてみようと思います。

うちとそとを結ぶ表現

「表に現る」のスタンスを身につけた今の私のまなざしで一期一会の時間と場を読み解く時。きっと、"遊びワークショップ"はいままでにない状況が環境としてうみでるはずです。

その場で即興的にうまれていくことを観察し意図的にエッセンスを抽出できると、"発想"として濃縮自在な"時のボトル"のように、遊びの発想のエッセンシャルオイルがうみだせるかもしれないとそんなイメージが今年にはいってからずっと浮かんでいます。もし、私が自分の表現をエッセンシャルオイル化できたら、その時々で必要な効能や香を楽しめるし、そういうあるかどうかわからないくらいの空気みたいな存在に、そこにある人やものや場のよさを引き出し、そっと香をのせるようなさりげない表現として、自然に循環するように営めるのかななんて。

うちとそとのエッセンシャルを結ぶような、香のような表現をこれから探ってみようと思っています。

今回のプロジェクトではいくつかそのまなざしで表現をこころみます。どうなるか楽しみです。

とにかく楽しくやってみます!


●令和元年度 豊中市文化芸術振興助成金交付事業「きょうかしょのきょうかしょ」プロジェクト
http://baobab-karada.com/


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