社会問題と日本の文化的背景

青年海外協力隊を経て、アメリカ暮らしをしたのちシルク・ドゥ・ソレイユで世界各国を10年ほど働きながら旅してきた経験から、日本の記事を比較・考察し、つぶやいているUmiです。


私が海外に住んでいる時にはこれほどまでゴミが出ない。少なくとももう少し選択肢がある。だが日本に住んでいるとなるべくゴミ出したくないにも関わらず、何かを買うと必ずと言っていいほどゴミが付いてくる。これは明らかな過剰包装だ。

なぜこんなにも便利さや消費者目線ばかりが追求されるのか。その追求ゆえに消費社会が進行し、過剰な使い捨て文化になった。それは様々な方面にも伝染し、人や情報も使い捨てにされている嫌いがある。

便利さや消費者目線追求の背景にはどのような原因があるだろう。商品やサービスの差別化や新しいモノの提供、もっと良くしたいという人間の本質的な欲求もあるだろう。それと同時に日本人の多くが時間に追われているからではないだろうか。時間がないから、その分小分けに販売したり、作業効率を良くするために工夫を凝らさなくてはならない。

ではなぜそんなに時間に追われているのだろう? 忙しいから? 

なぜそんなに忙しいの? 人材不足? ブラック企業が多いから?

忙しそうにしていると頑張っているように見えて自他共に満足するから?

果たしてその頑張りと比例して生産性は本当に高いの?

忙しいことや頑張っていることが美徳の文化だけど、それって本当に美徳?

無駄に忙しく、無駄な努力で終わってない? 

何のための忙しさ? 何のための努力?

消費社会や環境問題を考えると必ずぶち当たるのが、この人間の根源的な問題だ。その根源に一人一人が疑問を持ち、高いレベルでの思考ができない限り行動は変わらない。

つまり、文化や生き方から見直し変えていかないと、環境問題は焼け石に水だ。



忙しくなくてはいけない、頑張っていなくていけないと思っていること(社会)から考え直さなければならない。

でも目の前の忙しさゆえに思考停止に陥ったり、深慮に欠ける人が大半ではないだろうか?

働き方改革も同じ。働き方を変えるということは生き方を見直すということだ。ただ時間だけ短縮すれば働き方改革だと言うのなら甚だ見当違いだ。

欧米に倣っての改革であるが、そもそも労働に対する考え方が日本とは違って、労働は生きるため、人生を楽しむために賃金を得ることの手段が労働であり、人生を楽しむことが労働よりも優先順位が高い。

そのため少しでも労働時間を減らすために効率よく働き、余分な仕事はしない。その他の時間を家族や友人と過ごしたり、自分の好きなことに当てたいから生産性が高くなるんだ。

欧米に倣って労働時間だけ短縮しても、生き方や時間に対する考え方が変わらないなら、欧米ほどの生産性の向上は期待できないだろう。

曲がりなりにも政府が強制して長時間労働を無くそうとしているのだから、人々はその生まれた余時間で生き方を再認識し、忙しいことが全てではないことを悟ってほしい。

その余裕が環境問題だけでなく、人間関係、社会にある様々な問題の根本的な解決に繋がることにもなる。余裕がないうちは自分のことだけで精一杯になってしまい、諸々の問題を考える余裕などあろうはずがない。

さてでは私に何ができるのか。私にできるのはその余裕のある生き方の実践と拡大だ。

もちろん日本は長きに渡って労働が生活の大半を占めるような文化だったからこそ、伝統文化や伝統工芸、職人さんなどこれだけ機械産業が発達しても彼らの技量を越えることができない、真似することができないことがいくつもある。

そういったものを否定する気は毛頭ないし、誇るべき文化である。それ以外の一般的な人々の生き方や働き方には見直す余地があると思う。

それを改革していくのは容易ではないし、果たして浸透するのかどうかも疑問ではあるのだが、人生に余裕は必要だ。


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