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広告は無差別だから。


広告の表現がだたの広告ではなく、エンターテイメントとして好意を持ってもらえることがスマホの普及とSNSのお陰ですごく増えた。



でも、広告が映画や小説やTVと違うのは、見たくもない人のところへ、無差別に飛び込んで行くところだと思う。



SNSの拡散によって、もともと見るはずのない人のところまで広告が届いたり、TVのニュースで取り上げられたりすることは、最近では特に珍しくなくなった。

それは、いい意味でも、悪いい意味でも。


「見た人が傷つく表現をしてはいけません。」


なんて当たり前すぎて、講座の基礎コースでもちゃんと教わんない。けど、いいコピーを書くことよりもこっちの方が大事だことだなって、最近はよく思う。


炎上している広告は、ここ数年覚えてないくらいたくさんあるけど、意図して炎上させている人なんてきっといない(と信じたい)。


この仕事をしているとどうしても、"他のものより目立ちたい" とか "自分の表現であっと言わせたい"っていう気持ちが先走って、そんな当たり前の部分でさえ、正直忘れそうになることもある。


普段生活していて不快にする表現ってなかなか気づかないけど、CCN審査会など一気に広告に触れる場面に行くと、とてもよくわかる。


これが、TVを見ている時、ラジオを聞いている時、電車に乗っている時に、急に目に飛び込んできたらどう思うか。



広告は、生活の中のいろんな場面で、私たちの目の前に急に飛び込んでくる。


基本的には映画やTVみたいに「これが見たい!」と、わざわざ見にきてもらえるものじゃない。


広告は邪魔者。という話は、業界の多くの人からよく聞くし、本当にそうだと思う。youtubeの広告なんてよっぽどじゃないと、速攻でスワイプする。(見ないといけないとはわかっていながら…)



広告は無差別に人に飛び込むものだから、不快にさせないのはもちろん、ポジティブに受け取ってもらおうという気持ちを、常に持ってないといけないと思う。


それは別に、悲しい表現をしないとか、常に元気や幸せを謳った明るいコピーを書くとかそういうことじゃなくて。


突然目に入った広告がたとえ、表現が悲しかったとしても、背中を押せたり、前を向けたり、人の心をポジティブに動かしたいな。