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【エッセイ】仕事と余暇について

 二〇一六年にぼくは『明日、機械がヒトになる』という科学ルポ本を上梓した。当時、「AIと仕事について」というテーマで文章を書いてくれという依頼がよくあったけれど、最近はあまりない。なぜだろう?
 実は、悲しいことに、日本のAI研究は、わずか数年で中国を代表とする諸外国に大幅に差をつけられてしまったのである。おかげでメディアもだんだんと興味を失い、話題も
「AI? あーいたいた、ペッパーくん? なんか最近はま寿司にいるよね」
 くらいのショボい話にしかならない。将来を嘱望されたAIロボットが回転寿司の受付……「AIが人間の仕事を奪う!」というあの威勢のいい危機論はなんだったんだ! どうしちまったんだよペッパーさん! むしろぼくは奪って欲しかったのに……どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
 初めてぼくが「AIと仕事」について読んだ本は、二〇一三年に日本で出版された、『機械との競争』(エリック・ブリニョルフソン、 アンドリュー・マカフィー著)だった。その後、日本でもさまざまな本が出版され、あらゆるメディアで「AIが仕事を奪う」ということが議論されてきた。中でも面白かったのは、二〇一六年に出た、井上智洋『人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊』だ。彼はAIをBI(ベーシックインカム)の議論と接続して、労働が人類に必要なのかという哲学的な思考を展開していた。AIに対して好意的な人、敵意を持っている人、それぞれに意見があったが、ぼくがワクワクしたのは、ロボットに仕事を奪われるということを大真面目に議論しているというSF的な現実、それ自体だった。
 あれから数年が経った今、街を見てもAIが人間の代わりにやっている仕事は……ほぼない。数十年先はあるのだろうか? 個人的にはあってほしいけれど、なんとなくこの国では無理だろうという気がしている。経団連のトップがメール使えないとか、著作権保護でスクショが禁止になりそうとか……なんなの? AIが仕事を奪うとか、それ以前の問題である。
 アメリカの経済学者デヴィッド・スタックラーとサンジェイ・バスが書いた『経済政策で人は死ぬか? 公衆衛生学から見た不況対策』という本がある。
 不況において緊縮財政をとると国民は健康を害して死者数が増える、という事実を統計で証明した本である。緊縮の影響は医療費や失業率をはじめ、いろいろなところに波及し、その結果死亡者が増えるという。
 つまり、ぼくらの運命は政治家の経済政策で統計的に左右されていて、そのことを我々はうっすらと理解している。そして、それをどうにもできない無力感も同時に感じている。
 これを踏まえると、世の中が政治家よりも起業家に期待するここ数年の空気がなんとなくわかってくる。つまり、政治とは違う実業の世界にいるベンチャー企業の経営者たちがテクノロジーで社会を革命してくれることを無意識に期待しているというわけだ。
 AIや最近のブロックチェーンにまつわる話題を見ていると「なんかわかんないけどすごい技術で革命が起きてほしい!」という期待感だけが高まっているのを感じないだろうか。もちろんぼくも期待しているが、具体的に何を? と問われるとわからない。とにかくはやく革命が起きて仕事なんてしなくてもいい世界になってほしい……しかし、残念ながら実際に起きる革命とは、ソフトバンクのスマホを見せると金曜日に牛丼が一杯だけ無料でもらえる、くらいのものなのである。確かに牛丼一杯が無料でもらえることは大切だ。すごい。救われる命もあるだろう(たぶん)。
 起業家のピーター・ティールはかつてこう言った「空飛ぶ車がほしかったのに、手に入ったのは一四〇文字だ」これに習って言うならば、「脳だけで生きたかったのに、手に入ったのは牛丼だった」というところか。
 歴史を紐解けばわかるが、真に革新的なテクノロジーとは危険なものである。それは常に戦争や犯罪や革命に使われる可能性を秘めている。だからこそ国家はそれを抑制する。しかし、テクノロジーなくして人類の発展はありえない。こうして「技術」を中心とした、国家と企業と国民の三角形が生まれる。
 資本主義のルールで動く企業、および市場は必ず格差を生み出してしまう。それを止めることはできない。だから国家はルールでそれを抑制し、国民から税金を取り、社会保障による再分配を正しく行わなくてはならない。自由を求める資本主義と、ルールを設定する国家は常に綱引き状態にあり、「テクノロジー」はそのあいだでゆれている。テクノロジーがどの位置に存在するかで、国民の仕事はさまざまに変化する。
 ともかく、ぼくはなんだっていいからテクノロジーでさっさと人間の仕事がなくなってしまえばいいと思っている。ほとんどの人は仕事なんてしたくないはずだ。友達と話して、趣味に没頭して、なんとなく自然のなかで運動して余暇を楽しんで生きられるならそっちのほうがいいに決まっている。しかし、そうなったとしてそれは本当に余暇なのだろうか?
 戦後派を代表する超ダウナー系作家の梅崎春夫の『怠惰の美徳』というエッセイを読むと、逆説的な真実が書かれていた。
”仕事があればこそ怠けるということが成立するのであって、仕事がないのに怠けるということなんかあり得ない、すなわち仕事が私を怠けさせるのだ。”
 マルクスはいつか「労働」がなくなると思っていた。でも、労働や仕事がなくなった世界で余暇を楽しむことは、それ自体が新しい労働なのかも知れない。だから、ぼくは今日もしなくてはならない仕事を無視して寝る。

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