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伊集院光のエッセイはラジオよりもつまらない「の」か?

2018年の5月に日記で書いた文章。先日、熊本美術館の展示で、山下陽光さん(https://twitter.com/ccttaa)に会ったとき「あの文章めちゃくちゃ面白くて、展示したかったんですよね」と言われ、「えっ……そんなに面白かったですか」、ということがあったので、ちょっと修正して公開してみる。


伊集院光のラジオが好きで、ときどき思い出すように聞いている。
そういえばエッセイも書いていたなあと思い、先日『のはなし』を読んでみたところ、ものすごく重要な問題を孕んだ本だったので、いろいろ書いてみたくなった。


というのも、この本、圧倒的にラジオのトークよりも面白くないのである(すいません!)。
あの喋りの勢いやテンションやリズムが、文章にするとすっぽり抜け落ちてしまっている。
びっくりするくらいのっぺりとしているのだ。
これは、単に文章が上手い下手とかそういう話ではなくて、明らかに「語り」と「書き」の問題だ。

なぜ「喋り」(一般的には「語り」と言われる)と「書き」は同じように面白くならないのだろうか?
これには明確な理由がある。
「語り」と、「書き」は同じ「言葉」を使っているようで、まったくちがっている。「語り」の場合、内容よりもテンションや話しているときの「感情」のほうが早く伝わってしまっているのだ。
これは人間の本能なので仕方がない(この話はダニエル・カーネマンの『ファストアンドスロー』に詳しい)。


『のはなし』に収録されているエッセイは、その構造を見るとラジオの語りとほぼ同じだ。
テーマがある、本題に入るとまずテーマについて話す、そこから自分の過去のエピソードなど。あるいはそれについて考えすぎるくらい考えていく。現在の話をしてまとめて落とす。
この構造が非常に綺麗にまとまっている。たぶんこれをもとにして伊集院光がトークをすればいつもどおり、面白いものになるだろう。
にもかかわらず、なぜラジオほど面白くならないのかというと、最初に言ったように、文章からテンションが抜け落ちていることが原因だ。
ではなぜ抜け落ちてしまうのか。
原因のひとつは、理性だ。

「書くこと」を意識すればするほど人は理性的になる。そして、理性は感情を抑制してしまう。
伊集院光がこのエッセイを書くにあたって、非常に理性を働かせたであろうことは文章の端々に感じられる。改行もあまりしないように気をつけているし、下品になりすぎないように言葉をセーブしている。
極めつけは、一人称。
「僕」だったり「私」なのはいいとして、なぜか「俺」が使われていない。意図的に排除している。
内容のバカバカしさと、尊大さのギャップという効果を狙う意味でも、「俺」のほうが良かったんじゃないかと思うのだが。あえて使っていない。
ところがラジオではそうではない。
伊集院光は常に、そのときどきのテンションで「俺」や「私」や「僕」を使い分けている。「語り」の場合、人はそのときどきの雰囲気で私、僕、俺を使い分ける(ちなみに、このあたりの人称と気分の問題をうまく小説にしている「小桜妙子をどう呼べばいい」という小説がある)


書き原稿で一人称を統一したほうがすっきり見えるのは、語りが瞬間なのに対して書くことは持続だからだ。
瞬間はそのときどきで消えていくので振り返ることができないが、持続する書き文字は残り続けるので、全体が俯瞰してしまえる。なので後者の場合は喋りだと気にならない人称のブレが気になる。

ところで、この「語り」と「書き」の問題は文学においてもすごく昔から存在している。代表的なのが『平家物語』だ。
平家物語といえば平清盛だけど、これを「たいらのきよもり」と読むのはそもそもおかしい。「の」ってなんだ? どこにも「の」なんて入ってないのに、どうして「の」を入れるんだ?
「の」がすごく気になる――と、古川日出男訳『平家物語』のあとがきに書かれている。


古川日出男の推理によると、昔は苗字を持つ人がレアだったのと、だいたいその地名を苗字にしていた。その結果、「あいつってどこの出身だっけ?」とかっていう会話のときに「三浦の●●」とか「肥後の●●」「播磨の●●」とかって言ったわけだ。
で、平家物語の表記って、

那須与一(なすよいち)
那須与一(なすのよいち)
那須の与一

っていうこの3つがバラバラに入ってるらしい。
語る側は賤民でそこには複雑な感情があって、●●の、という表記で呼ぶ側には偉そうにしやがってという想いと、いいなあ……、憧れと憎悪みたいなのが含まれている。
これは時代をまたいでいろいろな人が書いてるから混在しているという理由もあるけれど、平家物語が「語り」だったことにも関係しているようだ。
とはいえ、書かれた「平家物語」のすべてが「語り」をうつしたものかというと、全部がそうでもなくて、「語り」と「書き」がお互いに混じっていたそうな。
それもあってさらに表記が揺れてる……とはいえ、古川日出男は、書写した人は、それをひとりでコントロールしていたと考える。けど、やっぱもとにもどって、いろいろな人の平家物語を書きたいからバラバラでいくぜ、ということらしい。

結局「語り」と「書き」はどっちがいいのだろうか。
これは書き手ではなく、受け手も考えないといけない問題である。
なぜなら、そのどっちに最初にふれたかで、印象が変わってしまうからだ。
たとえばぼくは伊集院の「語り」のほうに最初に触れていたので「書き」に違和感があった。逆に「書き」に先に触れていたひとは「語り」に違和感がある。
違和感というのは比較である。
ふたつのものがないと発生しない。
そして、どちらを最初に好きになったかで印象が変わってしまう。

A「語り」と「書き」が一致、良い
B「語り」と「書き」が一致、悪い
C「語り」と「書き」が不一致、良い
D「語り」と「書き」が不一致、悪い

というこの4パターンのうちで今回ぼくはたまたまDだと思ったわけだが、もちろん読む人にとっては他の3つである可能性もある。
ただ平均的評価はこの4つのどれかに収まりがち。

以上、伊集院光のエッセイ「のはなし」について考えてたら、平家物語の「の」の話につながったという、語りと書きについての奇妙な偶然。

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