ストラング「訴求的記述」で日本史の問題点を探る。日本史研究者・呉座勇一編①

 今回もストラング「遡及的記述」を背景にしながら日本史の問題点を探っていく。
 「史料主義」とは、日本史研究者たちが外部からの考察を「史料が存在しない」という一点で否定する姿勢を指して使われる。一体どういう場面で使われているのか?今回から、その「史料主義」の実態に迫っていく。
 今回まな板にのせるのは、中世史が専門の呉座勇一氏の著作「日本中世への正体」。呉座氏は2016年「応仁の乱」(中公新書)が大ヒット、その後も中世史を中心に研究、著作活動を続けている。私が最初に読んだのはその「応仁の乱」。それほど興味はなかったが、かなり話題になっていたし、久々に日本史を楽しみたいという思いから購入した。
 が、やはり半分ほど読んで挫折。なぜ「やはり」なのか?これは日本史、特に古代史、中世史について共通して言えるが、新書と言っても専門的、細部にわたる知識が詰め込まれており、ある程度の知識と興味、それと忍耐力がないと厳しいのだ。「ちょっと読んでみるか」というノリでは挫折する、そんなノリがあるのだ。
 少々脱線するが、新書というのは専門家と私たちをつなぐ架け橋のようなものだと思う。私たちが本格的な調べものに入る前に読む入門書であり、専門家が自分たちの研究がどんな今日的意義をもつのか?いかに面白いか?などを一般の人々に伝える伝導書でもある。個人的には、自然科学分野で新書はその役割を果たしていると思われるが、日本史の古代、中世の新書には、通常の研究論文をミニサイズ化しただけのものが多いような気がする。
 本題に戻ろう。今回取り上げるのは、呉座氏が2020年に出した「日本中世への正体」(朝日新書)である。実は、3年ほど前から「清め塩がなぜ消えたのか?」について調べる中でこの本と出会った。テーマのせいもあろうが先ほどの「応仁の乱」とは違って門外漢でもわかりやすく、最後まで読むことができた。
 ところが、読み進めていくうちに「あれっ」と思う箇所が…。本の数ヶ所で唐突に作家・井沢元彦氏の名前が上がり、「歴史の常識がない」「奇説だ」などとこき下ろされるのだ。もちろん、批判するのは悪くない、学問の世界では大切なことである。しかし、あまりにも唐突すぎて一方的なのだ。しかも、記述の流れを見てもそこに井沢氏の主張がくる必然性がない。ないので「なお、」と強引につないで、井沢氏の主張を簡単に取り上げて吊し上げている。そして井沢氏に気の毒なのは、批判の対象とされた主張の出所が明確に示されていないので、読者がそれを確認することは難しい。実は、このことを取り上げたのは、ここにこそ日本史研究者の「史料主義」が潜んでいると踏んだからだ。ともかく、該当箇所をご覧頂こう。

①天智天皇の4人の娘が天武天皇の妃になっている。要は叔父さんと4人の姪が結婚しているわけだ。現代人にとっては非常に違和感のある結婚で、推理小説家の井沢元彦氏などが「天智天皇と天武天皇は実は兄弟ではなかった」という奇説を発表したのも、このためだろう。だが、古代の常識と現代の常識は違う。p17
②なお持統上皇の火葬について、井沢元彦氏は、「死のケガレを除去するため」と説明する。だがこの時代に死穢、死のケガレという認識が存在したことは史料によって証明されていない。…(モガリの説明)…このモガリの期間は数ヶ月、長ければ1年以上である。もしこの時代の人が死穢を恐れていたのなら死穢の蔓延を避けるためにすぐに埋葬しているだろう。この点で井沢節は成り立たない。p143
③歴史哲学書「愚管抄」の作者として知られる僧侶の慈円も「自分の死穢は三十日で消えるので、以後は普段通りに生活せよ」と遺言している。貴族が穢れを心の底から恐れ、忌み嫌っていたとする井沢元彦氏の理解(「逆説の日本史」など)は誤りである。p152

①については、私は井沢氏の「逆説の日本史 2古代黎明編」を読んでいるので(蔵書あり)呉座氏の批判が的外れなことはすぐに分かる。まず、井沢氏は当時の近親婚について本書p216において、「確かに古代の皇室では近親結婚は珍しくない。しかし実の弟に四人もの娘を嫁がせた例は他にない。つまり、実の弟ではない。」と述べている。つまり、古代の常識を知らなかったわけではない。しかも、2人が兄弟でないとした理由はそれだけではない。日本書記に天武の年齢が明記されていなこと、天武の年齢の方が高い可能性などを理由に挙げている。しかも、井沢氏は兄弟、非兄弟の全てのケースを想定、その検証に十数ページを費やしているのだ。実際にこの本を読めば、呉座氏の指摘がいかにいい加減なものが分かる。井沢氏を知らない読者は、井沢氏=歴史の常識がない、その上で奇説を連発する、いい加減な推理小説家だと認識するに違いない。
②「史料によって証明されていないから成り立たない」は「史料に記述がないものは史実とは言えない。」と同義である。ところが、少なからずの古代史の研究者たちが、死穢の思想は弥生時代からあったとするし、大化時代の「薄葬の詔」の背景に死穢の思想があったことは通説であ理、そこに史料による裏付けはない。また、呉座氏は死穢の思想が存在していたのであればモガリなどせずにすぐに埋葬したはず、と言うが、モガリにはモガリの意義がある。死穢を恐れるならモガリなどやめてすぐに埋葬する、などあり得ようか。
③ 「貴族が穢れを心の底から恐れ忌み嫌っていた」との主張は井沢氏だけではない。古代史研究者の大半、特に「穢れ」を研究している者であればほぼ全員が井沢氏と同じ認識ではないだろうか?もちろん、呉座氏が言うように、当時の貴族の中には穢れを恐れない人もいたに違いない。しかし、だからと言って井沢氏やその他の研究者の主張がその影響を受けないことは当然だ。しかもである。呉座氏がその根拠として取り上げたのは慈円、僧侶である。仏教の教えに「穢れ」の概念はない。だからこそ仏教が葬式仏教と言われるまで葬儀に関与したのではないか?門外漢でありながら少々口が滑った。

 以上、呉座氏の井沢氏批判をひとつひとつ検証してみると、どれもこれも首をかしげるようなものばかりである。が、そうした呉座氏の批判を見ているうちに、その背景には日本史学会の「史料主義」にしがみつこうとする姿勢が見え隠れする。

 実は、井沢氏は30年くらいほど前からこの日本史研究者の「史料主義」(井沢氏の言葉を借りると史料至上主義)を批判してきた。(小学館「サピオ」、「逆説の日本史」シリーズ)代表的なものには安土の名前の由来、聖徳太子の命名の由来、そして天智天皇、天武天皇非兄弟説秘密など。大胆な仮説の設定、それを綿密に検証する姿勢は、日本史の分野に問題解決型思考という研究スタイルを提示、多くの日本史ファンを作り出した。それまでの史料を寡黙に読み解くという従来の日本史のイメージが変わる予感さえした。
 井沢氏は著作を通じて、日本史学会の抱える三大欠陥を指摘しつづけてきた。①史料至上主義、②歴史の宗教的(呪術的)側面の無視ないし軽視、③権威主義研究である(「逆説の日本史2古代黎明編」p179)。しかし、その批判を日本史学会は無視、史料を重視する従来の姿勢を全く変えることはなかったようだ。
 そうしたことを踏まえると、呉座氏の一件唐突に見える井沢批判にもそれなりの理由が見えてくる。業界人として一矢報いたい。しかし、きちんとした形で井沢批判を展開すると、反論を受けて瓦解してしまう。とはいえ、学会に属する研究者としてどこかで批判して溜飲を下げておきたい。同時に、自分の読者にもその正当性を印象付けておきたい。そんなところではないか?

 そこまでしてなぜ史料にしがみ付くのか?ストラング「訴求的記述」がその背景を説明している。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?