平泉試案はなぜ葬り去られたのか?②英語教育の議論は国民全体を視野に!

 1974年当時参議院議員だった平泉渉が自民党政務調査会に提出したいわゆる「平泉私案」。日本の英語教育のあり方に重要な示唆を与えるその主張はなぜ葬り去られたのか?当時の状況を振り返りながら、これからの外国語教育、とりわけ英語教育のあり方について考えていく。参考文献は前回にひきつづき鳥飼久美子著「英語教育論争から考える」(みすず書房)。
 今回から平泉試案を個々にみながらコメントを加えていく。まずは序文の全文を引用しよう。

  わが国における外国語教育は、中等教育・高等教育が国民のごく限られた部分に対するものでしかなかった当時から、すでにその効率の低さが指摘されてきた。旧制中学・旧制高校を通じて、平均8年以上にわたる毎週数時間以上の学習にも係わらず旧制大学高専卒業者の外国語能力は、概して実際における活用の域に達しなかった。今や事実上全国民が中等教育の課程に進む段階を迎えて、問題は一層重大なものとなりつつある。それは第一に、問題が全国民にとっての問題となったことであり、第二に、その効率のわるさが更に一段と悪化しているようにみえることである。
 国際化の進むわが国の現状を考え、また、全国民の子弟と担当教職員がとが、外国語の学習と教育とのために払っている巨大な、しかもむくわれない努力をみるとき、この問題は今やわが文教政策上の最も重要な課題の一つとなっているといわねばならぬ。

 英語教育改革が全国民が英語を学ぶ時代となって全国民にとっての問題となった、という指摘は重要である。つまり、義務教育化されたことで、英語教育について論じる際は、国民の大多数となる一生英語を使わない人々を念頭に置かねばならない、ということである。これは英語教育改革を考えるうえで絶対不可欠の視点である。具体的に言えば、大人になって英語を全く使わない国民が学校時代どれほど英語学習を苦痛と感じていたのか?英語の勉強のせいでどれだけやりたい時間を奪われていたのか?その学びが社会でどれだけ活きているのか?払ったコストに見合う価値があるのか?英語教育が全国民の問題となった今、その点を十分に踏まえなけえばならない。
 しかし、平泉試案以降も無視され続けているように思えてならない。それはそのはず。議論はほとんど英語の専門家たち、もしくは英語学習をひととりは終えたインテリたちによってなされる。彼らの発想や経験をもとに議論されていたら、英語教育がどの程度の無駄を生んでいるのか?報われない努力を強いているのか?が議論の土俵にあがってこない。
 実は、平泉試案に今でも色あせない魅力を感じるのは、こうした英語教育によって生まれる負の部分に焦点をあてた点である。英語教育界や文部科学省からは出てこない場合、国民の代表である政治家が出すしかない。それを平泉は実践した。しかし、当然ながらこの点についてはほぼ無視。40年後に平泉試案に光をあてて著作を記した鳥飼久美子氏さえも例外ではない。
 この箇所はあくまで序章、あとで具体策として試案に登場するので、その際詳しく論じていきた。

 ちなみに、こうした議論においてよく登場する反論を紹介しよう。
 一つは、「英語を学んでなかったらアルファベットが読めない」といったコスパを完全無視する意見である。これは数学などほかの教科の議論においてもよく出てくるのだが、こうした論外の意見がすんなり採用されたりするから議論のときは注意しなければならない。
 「無駄だから必要ないという発想はダメ。そういうことに取り組むことも世の中に出たとき役に立つ。」という意見も出る。もちろん、受けとる側がそうした意識で取り組むことは大事だが、それをサービスの供給側がいうのは言語同断、プロとして失格である。
 以上。次回につづく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?