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祖父のこと、ご先祖さまのこと、反骨のモノづくり #朝note

毎朝出社後、打刻する前に15分noteを書くを実行中。

オリンパスを喧嘩別れした祖父

年始早々に祖父が他界した。大正12年生まれ、97歳。高度経済成長の真っただ中でモノづくり一筋に生きた人だった。私がモノづくりをする時、自分の中でこの祖父の血がグツグツと煮えたぎっているのを感じる。

厳粛、厳格。潔癖。幼少期に祖父に会いに行くときは、斎戒沐浴、正装、背筋を正して正座。それはそれは威厳に溢れた、一言で言えばコワい祖父であった。自分に厳しく、他人に厳しく、身内にも誰よりも厳しく、周囲に友だちなく、常に一人、そんな孤独も垣間見た。

開成中学・高校を出て、さあ東大にと受験、失敗をしてしまった。千葉大学工学部に進学、プロダクトデザインを学んだと聞く。すごいじゃんと思うのですが、本人は東大に落ちてしまったことを終生引きずり続けていたようで、自分を責め続けたあげくに、近寄りがたい人になってしまったようだ。

戦争突入、海軍へ。カメラが大好きだった祖父は、海軍で砲撃・魚雷のカメラ測定・ソナー開発の基礎研究に従事していたと聞く。故郷の長野の軍需工場で研究に打ち込み、終戦。そのまま、カメラ・工学機器メーカーに衣替えした 高千穂光学工業に就職、後にオリンパスに。祖父の専門は品質管理、工程管理、TQCの専門家であった。厳格、潔癖な性格によほどぴったりはまったものだと思う。オリンパスで理事職まで上り、次は役員にという席まで登っていたと聞く。しかし、品質管理の立場で当時の経営層と真正面からぶつかり、左遷(この話と、後のオリンパス事件との繋がりが気になってはいたが、とても話を聞ける雰囲気ではなかった)。役員ルートから外れ、いくつかの子会社の社長職を務めてから退職。退職後は実家にこもった生活で、誰も訪れず、誰を訪れもせずという隠居生活を長らく続けていた。

自身の立場を危うくすることを厭わず、品質・工程管理の立場から出処進退をかけて会社と正面衝突、散っていった祖父。反骨、義侠の精神。これこそ、私の血の中にもグツグツと感じる、モノづくりの血である。よくぞやった!と、孫としては祖父に拍手喝采。しかし、当時の祖父の家族、親兄弟は、「妥協を知らない、自説を曲げられない、協調性がない」と非難囂々だった様子が伺える。しかし、それで良いと思う。モノづくりは、曲げるものではない。プロダクトを利用いただくお客さまにとって、最良最高のモノをつくる、この一本道であるはずだ。

松本城の城代家老だったご先祖さま

きちきちっとした性格の祖父(ここばかりは、私と正反対、私はずぼら)。ご先祖さまのことを調べ上げ、家系図としてきちっと遺してくれた。戦国の世は武士で、松本城の城代家老を務めた家だったらしい。すごいじゃん!と思うのだが、オチがある。武田家の信濃進行前、小笠原家の武士であったらしい。松本城陥落、武田家統治となり、ご先祖さまや家来一行は離散。落ちていった先で、農民になったらしい。長野に菩提寺があり、小笠原家の武士たちがひっそりと祭られている。ご先祖さまのお墓もここにある。この体制側でないところ、武道誉れ高い小笠原家で新興勢力にあたって散ってしまったところ、こんなところが、私のご先祖さまらしいなと妙に納得してしまうポイントである。私も、反体制。反骨。だからテレ東がしっくりくるのである。血は脈々と受け継がれ、子々孫々が現世を生き、未来をつくっていく。が、根っこのところにある想い、信条は、一族みな同じようなところにあり、同じようなことで笑い、怒り、泣き、一生を繰り返しているのではないかと思うのである。

毎朝出社打刻前15分のnote活動

毎朝出社後、打刻する前に15分noteを書く、を実施中。実際にやってみると、メール処理などがあって大変。。仕事激務時はお休みします。※「それならもっと早くに出社すれば良いのでは?」というお声に対しては、既にニア始発出社であることを言い訳併記。


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