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まだ人生の十二月に達してはいないが……

 憂うつだと感じるときにはいつも、「自分の人生はもう終わってしまった。いまさらなにをしても、手遅れだ……」と感じる。まだたくさんの時間がある、近所の子どもたちをうらやましく感じるのはそんなときだ。それなら、と憂うつでないときがどんなときかを考えると、「人生、まだ終わってないかもしれない」と思えるときで、そうするとどうやら、憂うつの感覚には、時間をどう感じるか、ということが関わってきそうだとわかる。

 精神科医・木村敏の『時間と自己』という本では、憂うつが、「祭のあと」の時間感覚と結びつけられていた。なにかが終わってしまった、と思うときの「なにか」とは、祭りのことなのかもしれない。祭りのように楽しい時間は、もう戻ってこない……。

 祭りといえば、季節は夏を想像する。そうすると、祭りのあとの時間とは、夏のあとの時間、秋か冬といえるのかもしれない。わたしの感覚でいえば、憂うつは冬と結びつく。季節をとわず、晴れた日よりもうす暗く寒い日に憂うつは強まる。

 冬のわびしさ。すべての可能性の落葉。自分で書いててますます救いがなさそうだが、わたしは一個季節を飛ばしてしまっている。秋。これが気になる。

 ちょっと話をずらすと、わたしはポール・オースターの小説が好きだ。かれの小説には、「すべてが終わってしまった」と感じる人物がたびたび登場する。そして、冬を乗り越えて生命の春へ、みたいに終わるのではなく、紅葉した葉っぱのような希望がチラリと光って終わる作品が多い。

 そんな感覚がユーモラスに描かれた作品が『ブルックリン・フォリーズ』で、わたしはこの作品がいちばん好きだ。主人公は六十歳近くで、人生はもう展開のしようがないと考えている。しかし、そんなかれが終盤、「まだ人生の十二月に達してはいないが、五月はとうに過ぎたことは間違いない。」という独白に続いて、自分の人生を十月の午後に例えることになる。どんな経緯でそうなったのか。それはぜひこの作品を読んで確かめてみてほしい。

 憂うつは冬のようだが、憂うつでないときは秋のようだ。春にも夏にも戻れない憂うつなわたしたちにも、まだ秋がある。そんなメッセージをわたしは、この作品から受け取った気がする。


『時間と自己』木村敏著 中公新書(1982)
『ブルックリン・フォリーズ』ポール・オースター著 柴田元幸訳 新潮文庫(2020)

※『鬱の本』(点滅社)を参考にさせていただきました。

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