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『宇宙を織りなすもの』を読んで。

『宇宙を織りなすもの—時間と空間の正体—』ブライアン・グリーン著

 『エレガントな宇宙』の著者としての方が有名らしいのですが、そちらは未読。いつか読みたいと思っている。ともあれ、本屋さんでタイトルを見て一目惚れしたみたいに買ってしまいました。『美しい数学』とか『神の歴史』とか『ゆらぎの不思議』とか、タイトルで魅了する学術書がたくさんある。その中でもこの本はピカイチでした。え?宇宙は織りなされてるもの?副題に「時間と空間」とあるからには、縦糸が時間で横糸が空間みたいな?それより、時間と空間は物質として存在するのか?それともそれらは人間独自の概念だが、数学では実証可能なのか?…タイトルだけでいろいろ考えてしまいます。上下巻合わせて1000ページを越える内容も、ほぼ一気読み。本当にわかりやすく、面白かった。

 内容の詳細はプロの書評に任せるとして、ここでは自分が面白いと思ったことをいくつかの角度からお話ししたい。


その1)大学の講堂でじかに講義を受けてるみたい。

 これは訳者さんの力量によるところも大きいとは思うのだけど、文章を読んでると言うより、目の前で話を聞いている感覚に近いものがあった。リズムがあって、聞き手の反応を確認しつつ、時おりウィットに富んだジョークを飛ばしつつ。著者の個人的な意見や感覚も書かれていてなお、中道の立場を維持する姿勢は、やはり研究者として好ましいものでもある。

 同じくらいのボリュームでやはり面白かった『銃・病原菌・鉄』も、著者の実体験を交えつつわかりやすくまとめられているのだが、そちらにはこんな感想は抱かなかった。詳細なデータ、多彩な実験や実績、多方面の分野の研究を、積み重ねて理論を展開して行くジャレド・ダイヤモンド氏の文章は、やはり文章。今にしてみると「乾いている」ような印象だ。いや、それが悪い訳ではなく、ドライに徹することも研究者として有りだと思う。それに比べて、ブライアン・グリーン氏の文章はとても砕けている、と言いたい。

 そもそも、この『宇宙を織りなすもの』で語られるのは物理学。しかしそこで著者が目指したのは「重要な科学上の知見から離れないようにしながらも、メタファーやアナロジーやエピソードや例を重視して、数学的な詳細はできるかぎり省いた」こと。更には、難しい部分を飛ばしたり斜め読みしたりした読者のためにその部分の簡潔なまとめを用意した、ともある。本書の「はじめに」に書かれていたことだ。これだけ読者を意識し、配慮に配慮を重ね、だからこそ、この親しみを持てる語り口となったのだと思う。時おりたとえ話として、あるいは現実的には不可能な実験台として出て来る、TVアニメのキャラクターたちなども奇妙でまさにコミカルだ。(『X-ファイル』のモルダーとスカリーも少し出て来る)

 数学苦手、定理とかそんな難しい話は頭が痛くなる、という人にも好印象を与えるんじゃないかと思う。現に自分は数字が大の苦手。どちらかと言うと理系より文系が好きなので、そんな私が楽しめる楽しい講義という、特徴を持っている。


その2)遠大な宇宙の学問が、実生活に何の影響があるというのか。

 宇宙がどのようにして始まったのか、時間に過去と未来があるのは何故なのか、「何もない空間」は本当に「無」なのか、こうした問題が一体私たちの生活に関係あるのか?そう感じる人も多いかと思う。人類のごく少数の頭の良い(そして変わり者な)人たちが暇に空かせて追求する世界、と割り切ることもできる。ただ知識欲に従って雑学を集め、人々の嫌われ者になる為だけに披露するウンチクマンになるだけ、と一笑に付すことも可能だ。それとも、理論はやがて実践として電子レンジやコンピュータや核兵器や核燃料などの現実的な利用を産む、と科学の進歩による恩恵を期待する姿勢を見せるのもいいだろう(たぶんこれが一般的な、そして多数派の意見だろう)。

 この著者も少年のときに不意に目にした本に問いかけられた。「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。それは、自殺ということだ。それ以外のこと、つまりこの世界が三次元よりなるとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ」アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』より。少年の頃の著者は答える、「そうとも、真の問題はそうやって考えたり分析したりすることが、人生は生きるに値するものだと確信させてくれるかどうかなのだ。それ以外のいっさいは枝葉末節なのだ」と。

 著者は更に言う。私たちが自然と言うカンバスに描かれているものを感覚として捉えるとき、大雑把ではあるが経験によって知ることができるものが「宇宙の実像」なのだ。物理学や脳神経心理学などのあらゆる学問の進展がそのカンバスの詳細を埋めて行くことはあるだろうが、私たちはそれらより経験が全てだと言っていいのだ。「しかし、現代科学の明かす自然の姿はそれとはだいぶ異なる。過去半世紀の科学的探求から得られた最大の教訓は、この宇宙の真の姿を知る指針としては、人間の知覚は頼りにならないということだった。日常生活といううわべを1枚めくれば、そこには捉えがたい世界が横たわっているのである」第一章より。

 はっとする。

 私たちが今見ている世界はコーラのビンを透かして見ているかのように色がついて歪んでいるのだ。それが事実や真実だと思っているのだ。そのことを知るだけでもじゅうぶん人の人生を豊かに、奥深くするのではないだろうか。

 ニュートンから始まる物理学の過去1世紀ぶんを振り返り、辿りつつ、本著の内容は進んで行く。そこには幾度も常識を覆し覆されたダイナミズムがある。天動説から地動説に変わったことなど有名だが、そこから今も尚それに似たことが起こっており、これからも起こりうる、と著者は言う。読んでいても経験則から言って理解しがたい学説がほぼ定説とされていたりして、うひゃあ、などと声が出てしまうほどだ。相対性理論や量子力学、エントロピーの増大、ヒッグス粒子やヒッグス場、ビッグバンや超ひも理論、インフレーション理論、暗黒物質や暗黒エネルギーの正体、超ひも理論から出たM理論やブレーン仮説、さらには世界は3次元や4次元どころか11次元くらいあるとか……いったい自分はどんな世界に生きているのだろう?

 それを追求してくれている人たちがいる。日々格闘しながら私たちの眼前から色付きのコーラビンを剥がそうとしてくれている。そう思いながら、彼らの足跡をたどることに意味はない、なんて、誰が言いきれるのだろう。私たち人類はそれを「知る」ことのできる存在なのだから。そして、私たちはエキサイティングな時代に幸運にも生きている。


その3)健全な懐疑が世界観を引っくり返す。

 何よりも感嘆するのは、科学者たちの気が狂いそうな程の真理への探究心だが、著者はそうして真理への坂を岩を押して上る道程をも、宇宙の真理に浸ることのできる幸福に包まれる、と言う。「宇宙の謎を解くだけでなく、宇宙の謎に浸ることによってさえ、宇宙を知ることができると悟ったのである」第一章より。

 3つめは私事に過ぎるかもだが、こうした科学者たちの態度は絵を描くことに通じる、としみじみ思う。

 理解しがたい世界で数字や理論と戦う異常に頭の良い人たちの特権でもなく、ウンチク(それは己自身で開拓し練り上げたものではない)を披露して悦に入るだけでなく、また現世利益な技術進歩の貢献のためでもなく、純粋にそこに謎があるから挑むのだ…というような。

 例えば、常識を疑い定説を覆し世界観をひっくり返すのは、私が絵を描く上でも大事なファクターだ。人間は思い込みの動物、記憶は好きなもの気になるものを基準に組み替えられ、見ていると思っていても実は見てないものだ。そこに気付いたとき世界はひっくり返る。山が谷に、盆地が台地に、海溝が山脈に、まるっと入れ替わる。その時の感動は本当に言葉にできない。「気付き」というのは教えられてできるものではない。あれこれ試行錯誤を繰り返し、失敗を何度も重ね、それでも諦めなかった者に訪れる瞬間だと思う。絵には、続けて行くうちにそうした瞬間が何度も訪れる。それまで見えなかったものが見えた瞬間の心地良さは感じた者にしかわからない。だが、次の瞬間にはこう考える「今までこれが見えなかったということは、まだ見えてないものがあるのではないか?」と。

 当然、時間はかかる。科学者には先人が築き上げた実績を足場に、より高次へと歩むことができる連綿とした道がある。(そうは言っても、人一人の一生でできることは限られているし、だからこその先人の知恵だろう)絵を描くのも他人から教えを請うこともあれば、講座を見聞きしそこから練り上げて行くこともできるが、それはその人のメソッドであって自分のメソッドではない。参考にしてもそのまま自分に当てはめることができないものだ。科学は普遍性や互換性があることが大前提だが、絵を描く行為は非常に個人的であるから、と思う。

 そうした違いはあるものの、やはり科学者の、いや学者といわれる人たちの勤勉さと誠実さについ胸を熱くしてしまうのが、こうした本を読むことの意味を自分に与えてくれる。

 以上、『宇宙を織りなすもの—時間と空間の正体—』ブライアン・グリーン著についての私なりの感想、およびオススメするポイントでした。こうして改まってちゃんとした文章を書くことに慣れてないので、ですます調だったりなんだりしましたが(汗)最後まで読んで下さってありがとうございました。


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