うんぬんかんぬん

おげんきですか? わたしです。

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まだうまれていない本のためのアカウントをつくりました。よければのぞきにきてください。なお、こちらはうんぬんかんぬんとしてのアカウントではなく、岩間個人のものです。 https://note.mu/ooooo

    • こころをばなににたとえん こころはあじさいの花 ももいろに咲く日はあれど  うすむらさきの思い出ばかりはせんなくて。 こころはまた夕闇の園生のふきあげ 音なき音のあゆむひびきに こころはひとつによりて悲しめども ああこのこころをばなににたとえん。 こころは二人の旅びと されど道づれのたえて物言うことなければ わがこころはいつもかくさびしきなり。 (永遠の詩07 萩原朔太郎 より「こころ」)           灰色の道路に紫のペチュニアが並んでいる。

      • スポーツのアニメを見ていた。体で生きようとしているひとたちの話は、いつもたいてい爽やかで、とてもおもしろい。体で生きようと思ったことなんてない。頭だけつかって生きていきたかった。そのほうが綺麗だと思っていた。小さなころ、父の真似をしてやっていた剣道のことを思い出す。古い体育館のにおいになじめなかった。汗をかくことや、息が切れることが苦手だった。父の愛したスポーツ。五年つづけたそれに最後まで打ちこむことのできなかったわたしは、想像力でどこかへ行こうとした。だけどこんな風におもし

        • はやく菜の花畑のあるところまで走って行きたいというきもちと、春になる前にどこかへ逃げてしまいたいというきもちがある。代々木上原の花屋の前で立ちすくむ。こんな綺麗なところにいつまでもいるわけにはいかないのに、名前も知らない白い花が、月光みたいに明るくてなんだか動けない。それらが何本も束ねてあるガラスの入れ物の、横にも花は敷きつめられ並んでいる。わたしはスイートピーしか知らない。けど、店先のお兄さんはきっとその何倍もの花の名前を覚えて、知っているんだろう。レジ袋をもったおばさんが

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        • 3本

        記事

          「うんぬんかんぬんさんのほうがいいよー」という意見があったので、しばらく、noteはうんぬんかんぬんさんでやろうかなっておもいます。いわま

          「うんぬんかんぬんさんのほうがいいよー」という意見があったので、しばらく、noteはうんぬんかんぬんさんでやろうかなっておもいます。いわま

          夜もすがら

          なにかひとつは用事を見つけて外に出る。外の空気を吸うだけでずいぶんと気分が変わるから、散歩はいいものだ。もうすっかり日も暮れた午後6時、傘をさしながらでもわたしはそう思う。他人の庭先で梅が濡れている。歩くことはいいものだ。コンクリートの上に溜まった水で、つまさきが濡れることも、嫌いじゃないなと思ってしまう。ひとりで鼻歌をうたいながらふらついているとき、なぜか世界になじんでいられる。 毎日なにかをやり残したような気がして眠れない。そんなものはないのだけど。いや、正確には、厳密

          春と夜気

          なんとなく日記を書かないようにした。もう日記を書かなくてもへいきなんじゃないかと思って。途端に、喉に餅でもつまっているようになってしまう。だめ、限界。話したいことをすべて人との会話で消化できているときは、書かなくても平気なんだけど。なにせ、話したいことがどうでもいいことばっかりだからなぁ。人をノートのかわりにしたくなくて黙る。書かずにはいられないということは、思っていたより綺麗なことじゃない。 もう春だなあ。雨が肌にすいついてくるような、この空気。どうだろう、この春の夜のに

          シリコーンスパチュラってなんだ

          20億光年ぶりにチョコなんかつくった。生チョコだし、友チョコだけど。一月に重い相談にのってもらったとき、「チョコちょうだいよ」って自分で言ってたんだけど、ありゃ忘れてたな。まあいっか。 たくさん寝るよりも、たくさん話したほうが休まることもある。ふしぎと。そう思えることは、残念なことに、とても少ないことなのだけれど。女子の亡霊みたいな「サバサバ風女子」の話と、工夫のないただの慣例になってしまった寄せ書きやプレゼントというのはやっかいだという話をした。野良猫に餌をやりながら、み

          シリコーンスパチュラってなんだ

          土に吸われていくように

          たくさんのひとと会って別れていく。三日前まで知らなかったひと達に囲まれて、一日のほとんどを過ごしているけど苦にならない。なんでだろう。体を動かすのはつかれるけれど、心に重くない。学生生活よりも気楽なくらいだ。それでお金がもらえるなんて、すごいな。というか、働けばお金がもらえるなんて、すごいよな。(と、言っても誰もわかってくれない…) 今日は雪のせいか、早くあがらせてもらえた。このごろ、時間を見て、青い絵の具と銀のペンで絵を描いている。絵を描こうと思ったのはとてもひさしぶりで

          土に吸われていくように

          春みたいなセーター

          書くことなんかもう無いんだと思うけど、けっきょく日記を書いてしまう。もっと、自分の白いところだけ拾って書けたら、堂々と人前に差し出せるのにと思う。つまんないか、そんなの。 今日は電子レンジを手で持ち帰ろうとして挫折した。それというのも、まわりは卒業して地元に帰ったりするから…。卒業後も大学にいるわたしは、知り合いから電子レンジをもらえることになったんだよね。「いけるだろ!」と思って、車で20分の距離を、ほぼ手ぶら+徒歩andバスで向かったんだけど、全然いけなかった。どこにも

          春みたいなセーター

          ふざけた風

          新学期前の、ちょっとしたアルバイトがはじまるまでの、貴重なお休みがあと二日で終わっちゃう。んだけど、なんだか気だるく。書類の提出とか、引っ越しとか、卒業式の格好のこととか、展示でつかわなかったものの返品とか、とかとか、やることはいっぱいあるんだけど、元気がでなくてなあ〜んにもしたくないのだった。なんとなく哀しんでいることにしたいけど、哀しいことなんかなんにもない。なんたって、昨日は友達とおいしい紅茶を飲んで半日遊んでいたのだし。 手っとりばやくげんきになるんだったら、やっぱ

          生活してるかい

          またカレーライスをつくりすぎてしまった。カレーライスやシチュー、肉じゃがみたいな、簡単な料理をつくっていると落ちつくので、いつもつくりすぎてしまう。待って、料理好きということにしないでほしい。これは一般的に言う、料理が好き、というきもちとは多分とおいところにあるんじゃないかと、さっき考えていた。わたしは料理をすることで、生活という、ならされた土のようなものをもう一度、でこぼこな姿に巻き戻して、絵のように眺めている。カレーライスみたいな、いかにも生活です、料理です、という顔をし

          生活してるかい

          私の話

          なんとなく最近、noteの綺麗なフォントに違和感を感じてきていて書きづらい。アプリケーションと相性がわるいとかなしい。noteは違うけど、アプリっていうのは、相性が悪かろうと、はやってたらコミュニケーションのためにやらざるを得ないようなところがあって、くやしい。ラインとか絶対向いてないし、やるべきじゃないよなって思うんだよね。だから苦しまぎれに、パカパカケータイをつらぬいているようなところもある。自分の身のまわりのことくらい選びたい。あと、日記はやっぱり個人名義で書いたらと言

          遊び

          歌いたくなったら、ほんとはカラオケじゃなくって、楽器屋に行きたいって思いたい。これはよくない癖だと思う。遊ぶのが下手というか。一昨日だったか、友人の家で年越しパーティーをするっていうから遊びに行った。「卒制が終わるまでわたしたちの年は明けない」ってたしかに言ってたけど、みんな「本気だったんだ…」って言いつつの参加だった。ちゃんとガキ使見て甘酒飲んで年越しした。今年もどうぞよろしくお願いします。 十人くらいいるのかな、一年ぶりに話したんじゃ…ってくらいの子もいる中でオールナイ

          見つめずにはいられない

          だあれも傷つけない夜の雪のようなものになって、この土地にふりつもって、朝にはとけて消えてしまいたい。街があって、音楽があるのだ。首からおなかにかけての、真ん中をとおるようにして。それが途方もなくうるさくて、うれしい。何も終わっていないのだ。「終わっちゃったね」「お別れだね」と言いながら、まったくそんな気がしないでいるのだ。もうずっと始まりたいような、終わりたいような気がしているのに。 作品のプレゼンと講評と展示という3つの大きな出来事が、まるで句読点のようにしてカレンダーの

          見つめずにはいられない

          ふさわしいこと

          卒制のプレゼンが終わった。もっとすっきりするかと思っていたけど、そうでもなかった。3年生までプレゼンがとても好きだった。最近は、自分にとってふさわしい形になった瞬間がひときわ大切で、それ以上に喋ることがない。わたしのなかの完成。そこでわたしの制作は止まるようになってしまったのかもしれない。プレゼンて、へんだな。でも朗読できてよかった。思っていたよりたくさんのひとに、声や言葉を「好きだ」「きれいだ」と言ってもらえてよかった。今まで教授に完全にこころを開いていなかったけど、「もっ

          ふさわしいこと