#14 メモ /// 方法的懐疑からの「我思う、ゆえに我あり」と、ものづくりの「物」と「情報(ストーリー)」との関係について考えたこと。

若い読者のための哲学史を読んでいて、デカルトの方法的懐疑の延長線上にある「我思う、ゆえに我あり。」という有名な一説。私は思考しているのだから、存在しているはずだ。という結論。

この結論から、僕らの地域文化商社とう仕事についても考えてしまった。僕らは「物」を扱っている。しかし、物を扱ってはいない。物は「機能と価格を含んだ交換価値」であるとともに「情報の塊」でもある。その情報を分解してみると、1.交換価値としての正当性を担保するための情報。と2.アーカイブとしての生産者や歴史的背景の二つに別れると思う。僕は後者のアーカイブとしての情報の方に興味がある。生産者がどういう思いでつくっているのか?なぜやってるのか?どういうきっかけでやりはじめたのか?なぜ続けているのか?そもそも、なぜその土地では、そういうものづくりがはじまったのか?先人はどういう土地との関係性を持ちながら、それをスタートさせたのか?なぜやる必要があったのか?

ただ、この2を掘り下げていく(トレーサビリティを担保していく)と、つきつめた先には、何もない。人間はどこから生まれたのか?という根源的なところにいきつく。かなり極端だが、これはものづくりだけではなく、世の中で起きているすべての事象がトレーサビリティをつきつめて、何が起因してはじまったかというと、わからない。人間がどうして生まれたのか?そもそも、生物がどのように生まれて行ったのか?という根本的な問いになっていく。

こんなことを考え始めたら、現代の世の中では生きていけない。だから、現代を日々暮らしていくために、物の売り買いを行う。根本的には興味があるわけではないが、社会生活として生きるために必要な行為である。そこでは、2はあまり意味をなさない。文化的価値としては価値が高いと僕は感じるけれど、経済的価値をどこまで持つかというのは疑問だ。しかし、この文化的価値の顕在化を行うことによって、1の「交換価値としての正当性を担保するための情報」の編集に役立つという側面が多いにあると思う。しかし、消費者は1くらいの情報しか欲してないし、基本的には2には興味がないと思う。あくまでも、価格と機能がついて、世の中の他のものと比較して、どういう価値があるのか?という点のみにおいて、消費者は興味がある。もちろん、文化的価値に興味がある人が多くなればとても嬉しいけれど、基本的にそこに希望をもってはいない。

「物を売る」という観点においては、2をつきつめる必要はない。なぜなら、1を作り上げることで、だいたい物は売ることはできるから。しかし、それをうちが主でやる必要はない。正確にいうと、そこだけをやる必要はない。あくまでも2をどれくらい掘り下げて、小売店や消費者に編集できる要素を与えることができるのか?その2を民間として広めることによって、1に対してどう作用できるのか?それが重要なのだと思う。

「我思う、ゆえに我あり。」私は思考しているのだから、存在しているはずだ。うん。物も物として商品として存在しているのだが、この文化的な要素の背景情報(ストーリー)が思考の部分にあたると思っている。逆にいうと、思考がないと、存在価値がないと思っている。特に地域でつくられている伝統工芸などは、この背景情報と物としての交換価値がセットでないと意味をなさないと思う。

「我思う」という意思と思考がとても重要で。我思わずに、我あり。と無意味に我ありと断定してしまうのは、よくない。物はあくまでも物理的な物であるが、物単体(機能と価格)には価値を僕は感じない。物単体においては、よい商品など無数に世の中にある。その中で、地域のものを選ぶという選択をするならば思考の部分が必要だ。


本質的な地域文化の継承を。