#4【日記のようなメモ】合理的と感覚的は二元論的に選択すべきではなく、グレー領域をつきつめるべきだ。

1泊2日で大分県の日出町に出張していた。kamenosというカフェと宿で、有馬晋平さんのスギコダマ・コダマの展示会が行われていて「白水くん、20日一緒にトークイベントしないー?」と連絡が来たからだ。僕は有馬さんと少し話したいなという気持ちと、人が入ったトークイベントで話す憂鬱と同時に抱えながら会場へ向かった。

有馬さんは、非常に感覚的な人で、もう13年だったか、このスギという木と、様々な木材に向かいあいながら作品をつくっている。その作品というのは、ひたすら丸い玉に木を造形しいくという感じ。造形というよりも、余白を削いでいったらその形になったという感じだろうか?

その作品は、とても魅力的で、触りたくなるし、手元に置いておいときたくなる作品だ。会場から最後質問が出て「この木の玉のスギコダマを、これなんですか?というときに、どう説明していますか?」という内容だった。感覚的にいいと思った人は、説明しないでもわかる。

これなんですか?と聞く人には2種類いて、本当にこの木の玉が世の中に存在する意味が全くわからない。機能もないし、値段の判断もわからないし、意味がわからない。つまり、自分がもってる何かの概念や価格にはめようとする人。これは、ものなどを見る人でも一定いる。地域のものづくりや伝統工芸という枠は、自分とは違って、それは高いものだ。みたいな固定観念にはめようとする。

もう一つは、感覚的にそれがいいと思っていて、より深くしるために「なんですか?」と聞くタイプ。これは、なんだか、よくわからないけどいいよねーということを元に質問をしている。そこは、ナラティブや、自分がどうこれを感じているのか?ということを確かめたい気持ちがうかがえる。

言語というのは難しく、ちょっとしたコミュニケーションをとることによって、そのなんですか?の意味は大きく変わってくる。感覚的でもあり合理的でもあり、そのバランスが面白いなと思う。

さて、まいいとして。

kamenosは、サロン的な場所だ。K夫妻が営んでいるカフェであり、宿であり、日出町が一望できる場所でもあり、森でもある。とても感覚的な奥さんと、感覚的でありながら合理的である旦那さんが喧々諤々議論しながら場のあり方が更新され続けている。

K夫妻とあれこれ話していて、感覚的に良いという場所をつくることと、合理的に社会としてそれを成立させて引き継いでいくところの狭間で揺れていた。それはとてもいいなと思い、僕らも同じように揺れている。ある程度の人数とかで共同体をつくっていくと、感覚的だけでいくと、多様性があればあるほど、ある一定のルールが必要になってくる。ある人の感覚を中心につっぱしると、それは汎用性がなくなっていく。でも、汎用性がない代わりに、その感覚によるフィルタリングがおこなわれ、そこに集まる人やものの求心力が素晴らしくなり、コミュニティが生まれる。それは、いわゆるサロン化していくのだと思う。

昨日のトークイベントには、急遽決まったにも関わらず20名ほどの方がきてくれて、僕の大学の恩師や、大学3年の時に教えてもらっていた建築家夫妻、APUや武蔵野美術大学の学生、そして少し遠くからも地域を盛り上げる活動をしている方、別府市役所カリスマ職員のAさん、某Y別荘のRさん。僕が大学3年の時、何者でもない時代に実はお世話になりまくっていた方々が集まってくれ、なんだかある意味でゼミのような、ある意味でこいつはどうなったかなとチェックされているような気持ちもありながら、でもみなさん、親のように暖かくトークイベントを聞いてくれ、僕としても、少し感慨深い時間となった。いつもは、わりとかっちりプレゼンをすることが多いのだが、昨日は有馬さんとフリートークで話しながら要所要所必要なところはスライドなどを使った。

僕自身、仕事においては、感覚や感情を置き去りにして、なるべく合理的な数字や仕組みをいろんな人にシェアして、より多く持ち帰ってもらおうという趣旨の時が多いが、そればかりやってると、伝わってないなという時もある。人間は合理的な仕組みだけでは動かない。感情と感覚が動いた時に、人は動き出すのであって、そこから仕組みをつくるには、合理的な側面が必要ということだ。

K夫妻と話していたら、今後少し合理的な方向に舵を切った方がいいんではないか?という感じで言っていて、僕はそうではないんじゃないか?ということを少し意見させてもらった。合理性と、感覚性みたいなものは、本当は相反する二つではなくて、どちらかを削って、どちらかを採用するという二元論的なものではなくて、両方とも存在しながら、適宜選択してグレー領域を攻めて最適化していくというのがいいんじゃないかなと最近思っている。

きっかけは、感覚や感情だと思っている。ただ、感覚や感情のみで判断するのではなく、本当にその感情が動いた領域や、問題解決したい領域を解消しようと思ったら合理的な判断も必要だろう。そういうことを考えた何日間かだった。

終わり。

本質的な地域文化の継承を。