人間は情報社会と反比例して、より体感をもとめる。(あれ、反比例か比例か?)情報社会が加速すると体感を強く求めるようになるから、比例だな。

Bike is Lifeという自転車の事業を、去年立ち上げをやって、先月リリースをした。うなぎの寝床としては、2012年、お店を立ち上げた当初からレンタサイクルをやりたかった。なぜかというと、車で作り手のところに行ってもらうよりも、雨や風や暑さや寒さも含めて、自分の力で作り手のところに行った方が、途中も含めて楽しめるし、その地域の雰囲気や、なんとなくの慣習なども体感として掴めるからである。あとは寄り道をしたり、実際目的地に行き着かなかったり。それでいいんじゃないかなと思う。

ITが発達して、webで情報を得るということが日常になっていくとき、目的を設定して、そこにピンポイントで向かうということは増えてきているだろう。なんだか、そこに対して違和感を持っていることはある。悪いとは思っていない。そういう社会だから。

20代の子(僕も33歳だから、そんな変わらないけど)と会うとすごいなと思うことも多い。すごいなと思うと同時に、違和感を覚えることもある。それは、別に20代に対してというよりも、別に30代でも60代でも違う要因ではあるのだが。

何かというと、わからない言葉や場所があった時に、すぐ最短を検索して調べることだ。それが悪いとは思わない。でも、その情報に対して、検索ではなくて、目の前にいる人たちと、それって何ですか?とかどういうことなんでしょうね?とか議論の余地が結構あったり、だいたいあっちの方向にいけばいい。とか曖昧な領域が抜け落ちていると感じることはある。それは抜け落ちてるんじゃなくて、多分「無い」という認識になるんだろうが、その目的地のような場所に一直線にいく社会は、僕としては少し違和感がある。

目的地へのルートみたいなのが、同じだと本当におもしろくない。目的地の設定はやっぱり社会人としては必要なのだと思うが、そのプロセスを楽しみたいというのもある。これは、僕個人の欲求なのだろうと思う。多分資本主義的というか、経済第一主義としては、最短で目的を達成した方が合理的で経済的にも豊かになるだろう。

しかし、人間は経済合理性のみを追求して、ゴールにたいして最短をいくことが人生において幸せか?というとそういうわけでもないように思う。その寄り道みたいな領域と、スピード領域みたいなのの塩梅みたいなのは、みんな違って、それでいいとは思っている。しかし、その曖昧な領域を生む仕組みみたいなのを作らないといけないなーというのが、僕の最近の課題である。

それは、今回はじめる、レンタサイクルの事業では、明確にある。車でいけばいいものを、わざわざレンタサイクルで回ってもらう。そこには、グーグルマップで目的地を入れて、車で目的地までいくというのとは、違う時間の使い方がまっているはずだ。そうでなければやる意味はそこまでないのかなと思う。

まー実際は、いろいろやってみないとわからない。しかしながら、こういう思考を巡らせながら、自分の中での意味を追求しながら、事業にはしっかり取り組みたいなとも思う。

本質的な地域文化の継承を。