異世界と時代劇とシェアード・ワールド

父が家においてたので、子供の頃から時代劇小説を読んでたんだけど、今の異世界ラノベで俺つえー……と言ってるのと、内容的にはあまり変わってないように思える。

今でも増刷されるような、とびっきりの名作じゃなくて、当時たくさん作られて、売られていた小説の話。

主人公は何とかのご落胤で、普段はだらしなく見えるけど、実は剣技がめちゃくちゃ上手くて、女の子にモテモテ。

もちろん時代考証はめちゃくちゃだし、いやそうはならんだろっていう、ご都合主義の塊。

じゃあ何が違うのかというと、設定が違う。

時代劇なんだから、別に何時代の話でもいいじゃない

……実はよくない。

基本は江戸時代。他に戦国時代とか、幕末とかあるけど、ある程度パターン化している。

そのパターン化していること自体が重要。

その設定について共通理解があるから、説明を省略できるし、文字だけでも情景が想像できる。

ガチの歴史エンターテイメントとして面白い物を作ることは可能だろうけど、時代劇というのはもっとインスタントな娯楽。

子供の頃から漫画でも小説でもテレビでもラジオでも、色んなメディアから情報が入るし、自分たちもチャンバラごっこをしてるから、説明も要らないし、長々と説明が必要なのは時代劇として見てもらえない。

おれが小学生の頃には、テレビで新作の時代劇も再放送もよくやってたから、暴れん坊将軍とかわりと知ってたけど、今はそうじゃないだろうと思う。

そうすると、

「奉行が岡っ引きをひきつれて、捕り物に向かう」

みたいな文章を見ても、さっぱりイメージがわかない。そもそも読めないかもしれない。

お奉行様は黒い陣笠をかぶって、岡っ引きは十手やら提灯やらをもって、御用だ御用だって叫んで……そういう感覚がないと時代劇小説は読めない。

老中というのも、老と中の字からいくら想像しても、大臣みたいな物という答えはでてきそうもない。

こういう意図して勉強しないとわからない状況になっちゃうと、もう時代劇を作っても、見てもらえない。

その話が面白いかどうか以前の、前提条件が失われてる。

異世界だから、世界が異なればなんでもいい

というのもやっぱり違う。

具体的にはテレビゲーム、ネットゲームの延長線上にある世界観のことを便宜上『異世界』と読んでるだけなんだから。

異世界の字面だけ見たってしょうがない。

そこから大きく外れた物を異世界だと言っても、言うだけなら止めようもないけど、でも異世界物だと認識してもらうことはできない。

「リザードマンの群れが襲ってきた」

みたいに書いてあって、どういう感じかだいたい想像できて、想像できるという前提の上に成り立ってる。

個々の理解は違うけど、だいたいこういうやつだ、という想像はつく。

例えば武器を手に持ってるか? とか。持ってるとして鋼鉄の武器なのか、石の斧なのか。

色は緑? 青? 灰色? 赤系の場合もある。

でも身体には鱗があって、二足歩行だというあたりはだいたい共通してるので、そこは説明しなくていい。

そこをあえて変なリザードマン像を提示していくというのもあるけど、それは一般的なリザードマン像があるから可能なこと。そうでなければあえての部分の意図がわからないから、なんだか妙な話になる。

リザードはトカゲのことだから……

別にファンタジーの言葉じゃなく英語だし、なんとなく想像できそうにも思えるけど、想像の幅が違う。

どんなのでもありえるから、ちゃんと説明してくれるだろうと期待するだし、それがないとナンダコレ? ってなる。

昔はロマサガのゲラ=ハ、今だとオーバーロードとか、そういう自分の中にリザードマン観があるから、勝手にそう思えるだけで、そういう体験を経てない人にはわからない。

だいたいそんなに熱心にトカゲを見たことない。ゲームでリザードマンと戦った回数の方が多い自信がある。リザードマンをシナリオ中に出してる人も、読者もたぶんそうだろうと思う。

(挿絵やコミカライズで作画する人はまた別だろうけど)

社会の時間に日本史を習ったからって、時代劇がわかるわけじゃないのと同じ。

シェアード・ワールド

という言葉を最初に聞いたのは、たしかLOGIN  SOFCOM(ソフコン)という雑誌に載ってた、オウビィシリーズの記事を見た時なんだけど。

世界観を固めておいて、それぞれがキャラクターや個々のエピソードを作っていくという、公式の二次創作みたいな物と考えるとわかりやすいかも。

ゲーム雑誌だったんで、読者からのこういう話はどうかっていう投稿がきて、それを元に新しいエピソードが発表される。

そしてその話が公式に反映されて、それまでのキャラとの関係性ができたり、あいまいだった部分の設定が追加されたりする。

異世界も時代劇もシェアード・ワールドだ

というのが今のところの認識。

異なる世界なら異世界になるわけでもなく、時代物なら時代劇になるわけでもない。上手く共有設定を使えてなかったり、そもそもする気もないのはシェアード・ワールドじゃないから。

そして定義にブレがあるのも当然。色んな人が作ってるんだから。変化だってする。

意外と保守的なところがあるのも、全部オリジナルの設定で、全部説明されてしまうと、それはもうシェアード・ワールドでもなんでもないわけで、前提が違ってくる。

学園物もロボット物も

これだってきっとシェアード・ワールドなんだろうなと思う。

そう聞いてテンプレート的な物を想像できるジャンルは、というかジャンルになってる時点でだいたいそう。

言葉の定義はともかく、学校やロボットがでてくればなんだっていいとは思ってない。

ただ作る方に、シェアード・ワールドに乗っかる気があるかどうかという点で、異世界や時代劇ほど明確ではない気がする。

小説文化とアニメ文化の違いというのもあるかも。

小説の場合は色んな部分で記号化が必要で、記号化するためには共通認識が必要だから。刀と書いたら刀を想像してもらえないと困る。

明確な権利者をもたないシェアード・ワールド

オウビィの場合は作者と読者の区別があった。

というのは、雑誌以外にその話をする場所がなかったし、掲載された時点で公認って感じだったから、公認権は作者サイドにあった。

通常シェアード・ワールドとして発表されてるのはこういうやり方だし、二次創作で生まれた設定が本家への反映されるのもコレ。

時代劇にも異世界にも明確な作者がいないから、それぞれが反映させたりさせなかったり、勝手にやった結果としてそれらしい輪郭が、ぼんやり見えてくる。 

そしてインターネット。

出版社とかテレビ局とかのフィルターなしで、直に作品を発表できてしまうし、たった140字程度のツイートでもシェアード・ワールドに影響を与えることはありえる。

インターネット時代に生まれた異世界は、最初から垣根のないような状態におかれてるから、個々の設定が"異世界"かどうか誰にもわからず、でも全体として見るとやっぱりなんらかの共通世界をもっているという、不思議な状態になってる。

シェアード・ワールドは他にも色々あるけど、誰かが明確な権利を持ってるわけじゃないから、許可取らなくてよかったり、二次創作じゃなく一次創作だと言って出せたり、色んなメリットがある。

とはいえ固有名詞になると色々あるんで、これは大丈夫だろうというラインを見誤ることもあるけど。

最近でいうと、魔法学校物とかはシェアード・ワールドにしていいのかどうか微妙なラインだけど、今後の成り行き次第。

とにかく色んな作品で使われてると大丈夫感が増すし、大丈夫そうなラインでだんだん共有化されてくるだろうと思う。

その時代にあった大衆小説

昔の小説に異世界物としてでも書けそうなシナリオもあれば、今の小説に時代劇にもできそうなシナリオもある。

シンプルにいえば売れるからそうしたんだけど、なんで売れるかというと、やっぱりその世界を知ってるから。

全然知らない世界をもってこられるとキツイな、というのは経験がある。

評判のよかった海外の翻訳小説を読んでみた時、しょっぱなからギリシャとかの古典から引用がされてて、数ページで挫折したことがある。

別に小難しい本は苦手じゃないんけど、固有名詞のどれが名前だか地名だかわかんないし、それはもう常識だからってことで説明しないし、話がどうかっていう以前の問題になった。

その本を読む前に色々勉強しなきゃいけない状態。

異世界に馴染みのない人が異世界物読んだら、たぶんこうなるんだろうなというのがよくわかった。そして異世界の場合はこれを勉強すれば大丈夫って古典もないから、もっと大変。

でももし小説の翻訳が、英語を日本語にするだけじゃなく、引用する古典自体を日本の物にして、合わせて世界観も日本風にローカライズしてれば、そのまま読めただろうと思う。

同じ用に架空の異世界の話にして、ちゃんとの作中で説明するとか。

個々の設定だけ見れば全然違う話でも、でも話の骨格はそのままで、面白さを伝えることが……結局読めてないから実際可能かどうかはわからないけど。

次代のシェアード・ワールドは?

いま子供の間に流行ってるもの、馴染みのあるものから生まれるんじゃないかと思うけど……何が流行ってるのかさっぱりわからない。

"異世界"はかなり柔軟性をもってるから、一見すると異世界のままで、細部の設定や、価値観の部分だけ入れ替わっていくのかもしれない。

時代劇だと価値観を変えちゃうと時代劇じゃなくなっちゃうけど、異世界の場合はそれができるのが強み。




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