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食に挑む

私にとって最高の贅沢とは、寿司屋に寿司を食べに行くことだ。

実家が飲食店で寿司を提供していることと、父親が板前だったこともあり、寿司自体はいつでも身近にあるので、特別でもなんでもない。しかし、寿司屋のカウンターに座って食事をすることは、何度回数を重ねても、私にとって特別な瞬間だ。コース通りに頂くのもいいし、前に置かれたネタを見て自分の好きな物を頼んでもよい。何をどう食べたいのかを板前さんと駆け引きすることも面白い。塩で焼くのか刺身にするのか蒸すのか、そのネタを一番美味しく食べられる方法を、父との食事を繰り返す中で知ることが出来た。お酒を飲める年齢になって父親と少しずつ話が出来るようになり、寿司屋に連れて行ってもらえることが増えた。飲食店を経営する家に育ったので、良いものが分かる舌を身につけて欲しいと、常々父親に説かれている。

しかし正直に言うと、何が美味しいかどうかを判断出来る舌は今の私にはない。一人2〜3万円の寿司屋に行っても、魚の種類や味の濃淡やネタとシャリの温度や見た目の美しさとか、それくらいしか分からない。目をつぶって食べてしまえば高級寿司と一般的な寿司と判別できるかどうか自信がない。美味しいかが分からないということは、まずいかどうかもわからない。というより料理に対してまずいと思った事がない。腐っているとか身体に良くなさそうな匂いがするとかそれくらいしかわからない。好きな食べ物は寿司とうどんとラーメンと答えるけど、なぜ好きなのかと言われるとよくわからなくなる。それらが他の食べ物より格別に美味しいと感じるかと言われるとそうでもない。

そもそも美味しいとは何なのだろうか。美味しいという感覚は、味覚だけでは生み出せない。舌の上で感じた感触を、脳が変換して生まれた現象なのだ。本当に、美味しいと言えるのだろうか?具体的に何をどのように感じることなのか?

「美味しそう!」から導入して「美味しかった!」までは、まるで自分に言い聞かせるための呪文のようにも思えてくる。もちろん美味しいと感じる方がいいのだ。せっかくお金を払ってまで食べるのだから、より満足感を得られるほうがいい。美味しい!という感覚が幸福度を上げるのは間違いない。誰かに作ってあげているときや作ってもらっているときもそうだ。美味しいと言って貰えるように願ったり、感謝の意味を込めて美味しいと言ってあげたくなる。美味しいと言った時の喜んだ顔が見たくて、つい言ってしまう。

美味しい。美味しいって何だろう。肉汁がじわっと口の中に広がったときに感じる興奮、にんにくの染み込んだソースを口にした時のたまらなくなる気持ち、噛み締めた米粒が甘く感じる喜び、みずみずしい葉野菜を口の中で噛みちぎった時の音、定食屋の味噌汁を飲んで思い出す母親の味噌汁の味、家に帰ると漂う料理の香り…
きっと、美味しいなんて、誰も説明出来ないんじゃないだろうか。はやく食べたい、もっと食べたい、そんなおおまかで大切な欲求を、ひとつにまとめてくれる便利な言葉なのだろう。命を繋ぐだけなら点滴だけで十分だ。それでも社会にはこんなにも食べ物が溢れている。人の「美味しい!」に懸ける熱量は恐ろしいほどだなと思う。やはり美味しいとは何かについてはまだ分からないけれど、美味しいという感覚は確かに自分の中にある。美味しいものがたくさんある日本に生まれてほんとうに良かったと思う。

#エッセイ

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