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髪のひとすじ 血の一滴 あなただけ

物に恨みはないとずっと思っていた。というより自分にそう言い聞かせていた。情に流されず、どんな時でも私情を絡めない判断ができる人間でありたいと強く願っていた。もう二度と会いたくない人からもらった物も、必要であれば使い、必要なければすぐに捨てられた。物はただの物だからだ。

しかし、つい先日、あんなに嫌っていた私情と欲まみれの自分と対面することになった。実家の片付けをしていたら、二階の物置に、大学に上がる頃まで使い続けていた木箱があった。普通のダンボールくらいの大きさの箱だが、ふたを手に取った時、突然爆音がしたような気がした。精神の居どころとは心臓なのか脳なのかどっちだったか。心臓の拍動なのか、脳が本当に音を感じたのか。どちらか分からないけれど背筋が凍えているのに心臓が熱くて仕方がなかった。

箱の中身は、すべて、中学時代のある同級生から貰った物だった。今までその箱の存在を忘れていたのに、その箱は私の思考の全てを拘束した。あの子との思い出が、溢れかえった液体のように滲み、頭の中を余すところなく埋め尽くした。私が開けたのは単なる木箱ではなく私の記憶の箱だったのだ。何も考えられないとはまさにあの感覚の事を言うのだろう。何も考えられなかった。ひとつひとつあの子を思い返すこと以外に。

貰った手紙や、枯れない薔薇を使った手作りの誕生日プレゼント、同じ機種の携帯、箱の中のもの何ひとつ、今の私には捨てることが出来なかった。きっと二度と見返すことはないのに、今となってはゴミにふさわしいのに、何ひとつ捨てられない。どんな声をしていたか、抱きついた胸が、何度も何度も握ったはずの手のひらが、どんな熱を持っていたか。もう思い出せないのに、どうしてこんなにあの子を離したくないのだろう。私の過去の中から。

彼女は確かに私の隣にいた。バレー部の彼女は私より20㎝は背が高かったので、並んでしまえば顔は見えなかった。よく、彼女にとって真逆のはずの私の最寄駅まで一緒に電車に揺られていた。真冬の夜の公園で、ただ手を繋いで座っていた。毎朝の講堂での礼拝で、彼女の肩にもたれている間はすべてのことを考えずに済んだ。彼女が苦しんでいれば、私も泣くほど苦しかった。手を握っても、彼女の痛みは分からなかった。彼女と自分を遮る皮膚を呪った。

中学の入学式で名前順に並び、前に立っていた彼女が、舞う桜の花びらとともに今でもこんなに鮮やかに思い出されるなんて、思いもしなかった。彼女はその時から背が高くて、大人みたいな喋り方をするのに、笑った顔があどけなかった。高校卒業までの6年間で同じクラスになったのはその一年だけだったけれど、やっぱり今思い返しても、彼女が誰より唯一の存在だ。代わりなんていない。代わりなんて要らない。ただひとりだけだ。私はレズビアンやバイセクシュアルではない、ただ彼女がいれば人にどう思われても何にも気にならなかった。人を好きになることとは、そういうことなのだろう。

高校に上がり、私から付き合おうと言ったかもしれない。離れようとも言ったかもしれない。私がそう言ったから今共にいないのだ。でもそんなこと、今となっては夢か現実だったのか信じられない。あの子が私のものだったなんて、都合の良い妄想のような気もしてくる。自分のものにしたくて、自分だけのものにしたくて、我慢できなかった。契約や約束なんてなくてもお互いに大切な存在だった。そんなものなくても、誰より何より大事だった。そんな彼女のことを信じられなかったのが人生最大の過ちだ。始まるということは終わるということだったのに。

私の生きる世界には彼女の愛しい記憶の破片があちらこちらに散らばっている。物を燃やしたところで、目を瞑ったところで、忘れようとしたところで、誰かのものになったところで、思えば思うほど彼女が浮かび上がるだけなのだ。離れているときの方が強く強く思い出す。彼女が、今もたくさんの人から愛されていますように。今は、ただそれだけ願っている。

#エッセイ



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