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花を食べて生きていきたい

後になって分かったことだが、「自分は頭が悪い」と声に出していうことには、二つの働きがあった。自分は頭が悪いという事実を受け入れることと、色んな嘘をついてまで「作ってきた」自分との別れだった。

楽になるためには

私は頭が良くない。しかしその言葉を今までずっと口に出すことがなかった。事実なのに受け入れられず、正直なところ認めたくなかったからだ。

言葉の中に閉じ込めた愚かな意地を、まわりの大人はどう感じていただろうか。きっとバレていただろうな。勉強も出来ないくせに、プライドだけは高く、嘘をついて取り繕っていた醜いこどもだった。

頭が悪いことを初めて自覚したのは、小学校四年生の算数の授業で、割り算の筆算が出てきた時だ。

終了した人から帰れる放課後のテストで、私は、何も書けずに白紙のままの答案用紙を先生に提出して帰った。何回考えてもわからなかった。何も書けないなんて恥ずかしいのは分かっていた。問題が解けた人たちが一人一人席を立つ音が聞こえてくる。けどこれ以上は何もできない。

焦る気持ちが速度を増して、ついには何かが狂い、鉛筆を置いて勢いよく立ち上がった。みんなとは違う理由で席を立つことの意味だけは分かっていた。みんなが出来ることが自分にはできないという絶望感と、なぜかすっきりとした気持ちを、今でも残念ながら覚えている。

いつのまにか割り算の筆算を克服した今となっては、その時どうしてそんなことで絶望していたのか分からないが、昔から負けず嫌いだった自分が、初めて負けを知った機会だった。勉強が出来る人々の集団から脱落したのだ。それでも自分は頭が悪いと思いたくなかったし、それっぽいことを悟るように呟いて、頭の悪さ、理解の浅さ、察しの悪さをごまかしたままで生きてきた。

大学は、関西では難関私学と言われる所に推薦で滑り込んだが、私にその学力は伴っていなかった。大学で知り合った親友が成績優秀で表彰され、授業料の免除を与えられているとなりで、暗記系以外の評価は教授の好き嫌いによるものだとか、そんなことを呟いて成績を気にしてないふりをした。心のなかでは、自分の頭の悪さがいつバレてしまうかという不安に怯えていた。

しかし、いつからか自分は頭が悪いから、と口にできるようになった。声に出して言葉にすることで、いつのまにか複雑に身体にまとわりついていた絡まった糸のようなものがするするとほどけて、身体も心も軽くなった気がした。

頭が悪いから、人より理解が遅いから、講義などでは1番前の席で聞くようになった。不出来な結果のテストを誰かに見せることや、理解出来ないことが露呈することを恥ずかしいと思わなくなった。だって頭が悪いのだから。仕方ない。

絆を絶つ音

一方で、言葉一つを声にするだけでこんなにも世界が変わってしまうことの恐ろしさも感じている。隠しきれない事実を認め、見栄を張るという生き方を辞めて、重い肩の荷が降りたけれど、その代償にいつのまにか姿を消した「嘘で作り上げた私」の喪失感が、新たに心を重く圧迫している。

虚像や嘘で押し固めてきた今までの自分を、恥ずかしいと思わない。側から見れば愚かでも、自分はこう在りたいというイメージや思いがないことこそを恥ずかしく思うべきだ。

私は今までその思いを大事にしてきたし、他人からもその部分を大切にされてきたと思う。誰でも批判されるだけでは辛い。少なからず誰かから褒められたり認められたり歓待されたりするから、悪人は居場所を見つけて生きていけるのだ。

他人との関係よりも、自分の意思を最優先にして生きてきた。ほかならぬ自分だけが、命が終わるその時まで、自分のものだと言い切る事ができる。自分自身との強い絆だけを大切にしてきた。自分で自分を縛り付け、窮屈そうに生きる私を、きっと他の人は可哀想に思っていたに違いない。

だからこそ、「頭が悪い」と言葉にする度に、自分自身との絆を絶つ激しい音が聞こえてくる。かさぶたを引き剥がすときのような、抜けそうな歯を引き抜くときのような、今までは自分のものであったものと突然離別するときの独特の痛みを感じる。自分を否定する言葉を唱える度に、自分の内側からおぞましい悲鳴が聞こえる。

この別れを、また歳を重ねた時にどう思うだろうか。こうしてひとつひとつ物事に整理をつけて、楽に生きていけるようになって、いつか私は軽々しく人生について語り出すのだろうか。子どもの頃もっとも恐れていた大人になっていないだろうか。

今は精一杯の人付き合いをするけれど、やはり人は変わりゆくものだから、次会う時にどんな関係性になっているのかは分からない。それは自分自身に対してもあり得ることなのだ。誰よりも信じて疑わない私自身さえ、変わりゆくものだ。小学生の頃の自分では、今の齢まで、まさか自分の頭が悪い事について悩んでいるなんて想像もしてなかったはずだ。

いつだって、色んな事に悩み、苦しんで、なんとか逃れた先には、新たな生き方と苦しい別れがあった。息が楽になる代わりになぜか胸が苦しくなる。いつか来る自分の死に際に、今のこの思いがどう変化しているのか、あるいはずっとこのまま抱き続けているのか。今回ばかりは歳をとるのを心待ちにしている。

#エッセイ



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