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Dia do cão

 タイトルは「犬の日」。グーグル翻訳で出てきたのをそのままコピペしただけだから合ってるかは分からない。diaが「日」でcaoが「犬」だそうだ。てことはdoが「of」かな? ちなみに猫は「gato」。こちらは好きなバンドと(偶然)同じ名前だったので一瞬で覚えた。ともかく今日は犬の日であった。
 ユーレイルでの二ヵ月の鉄道旅行を終え、リスボンに戻ってから早くも一週間が経ち、書かねばならない小説の〆切はとうに過ぎ、別のコンペの〆切も迫り、てんやわんやの心境の中で宿を変えた。リスボンから鉄道で海を渡り、アモーラ地区のドミトリーに泊まっているけれど、周囲は完全に住宅街で、特に見るものもない。この一週間が勝負だ、引き籠って書き物を仕上げるぞと決意をして、何故だか最も差し迫っていないnoteを書いている。
 前日、チェックインをした夕方から夜までうたた寝してしまった為に目が覚めてから夜通しツイッターとユーチューブを見ていたら朝になってしまい、それから昼過ぎまで寝ていた。起きてシャワーを浴びてバスタブで服を洗って干そうとすると、外は季節の変わり目の雨だった。それなりに強い。仕方なくジーパンと、なんだ、シャツ? 多分中学くらいから着ている黒い長袖の服を何と呼ぶのか俺は未だに知らない。シャツ、でいいのかな、いいよなもう。物持ちがいいけど物書きとしては失格っぽい。まあいいよな時代はグーグル先生だ。ググッても分かんなかったけど。てかもうアレクサ? とにかくそれらを洗って絞って雨のベランダに干した。下着と靴下は屋根裏のベッドのカーテンレールに干した。レールというか、ベッドの上部につっかえ棒が一本通されているだけなので干していると穴から抜けて落ちた。その音を聞いて、階下の共有スペースで白壁に映し出した映画を観ていたオーナーの弟だか兄だかの人が上がってきて、棒を伸ばしてくれた。それで俺は申し分なく衣類を干せた。えっここまででもう800字? 何でこの速度で小説が書けないんだろう。やりたいこととやれることが一瞬でも重なることがこれからの人生においてあるんだろうかと考えて暗澹たる気分になる。その瞬間に死んでもいい。だから身体の全細胞が燃え尽きるようなそんな瞬間よ、どうか俺に訪れてくれ。それだけを祈って生きているけれど、生きている以上どこかに絶対に信仰は必要だから、つまりそれが俺の信仰です。その時世界の音が聞こえるって、誰かがツイッターに書いていた。
 犬の日、だった。犬に追い掛けられた。洗濯物を干して午後四時頃から宿を出て散策を始めた。昨日の夜に一応市街まで歩いてみたけど特に何もないのは分かっていたから、とりあえずその先を海まで歩いてみることにした。SIMを入れていないiPhoneSEはWi-Fiの残滓か電波の入っていない場所でもグーグルMAPを開くと一応現在地を表示してくれる。それでどこかの公園を抜けて一本道を歩いて行くと海まで出れるらしかったから歩いたら、道はどんどん獣道になる。大きな水溜まりがあって、引き返そうとも思ったけど特に理由がないということで言えば行くも退くも等価だったから、行った。幸い水溜まりの縁には陸地があり、最後は柵に手を掛けながらジャンプして越えた。タイっぽいなと思った。もう五年くらい前か、旅費を三万しか持たないでタイを三ヵ月周ったことがあった。寺に行って托鉢に同行すれば宿と飯はどうにか世話してもらえる。それを最後の頼みとしていたけれど、実際には二週間かそこらで寺に世話になった。五軒ほど寺を周った。街中の寺もあれば山奥の寺もあった。だから人生の最後の選択肢として、タイに行って坊さんになるというオプションは未だに俺の脳裡にある。
 まあ、どこも山道の景色なんて似たようなものかも知れない。陽が暮れる中海が見える道まで出て、恐らくもう役目を終えたのであろう船をiPhoneの「ビビッド」モードで撮った。
 それからまたグーグルMAPを開いて一本道を下って行くと、左手から犬の吠える声が聞こえてきて顔を上げる。縄が付いているかどうかを確認すると、首輪に付けられた鎖が更に民家の領域を画定するロープに繋がれていて、犬はそのロープから鎖の長さ分までしか動けないようになっていた。犬の吠える声(ってなんて言うんだろ、「遠吠え」ではないし、「吠声」とかって名称があればカッコ付くんだけどな、と思ったらアリなのかな。 https://furigana.info/w/%E5%90%A0%E5%A3%B0 )を素通りして歩く。するとまたしても左手から犬の吠声が聞こえて来て、見ると黒い犬が何の柵も感じさせぬ躍動する肉体で全力でこっちに向かって来る。こりゃやべえ、と思いこちらも全力で走る。スーパーで買ったコーヒー牛乳の1リットルパックと折り畳み傘を小脇に抱えた三十一歳の身体はもしもアンドロイドだったら三歩目で分解していたかも知れない。思えば初めて外国を一人旅した、二十歳、ベトナムのフエでも俺は犬に追い掛けられていた。観光名所の城を観に行こうとしたら既に閉まっていて、帰りに川沿いを歩いていると前方から二匹の犬がけたたましく吠えながら俺に向かって来たのだった。気が動転してうっかり木にでも上りそうになったけれど、ともかく走って車道に出て、そのまま橋を渡ると中程まで来た頃にはもう犬は追っては来ていなかった。狂犬病のワクチンを打たずに来たので、九死に一生を得る経験となった。それから、タイで寺に世話になってる時に坊さんが裸足で地面をダンッと踏むと犬はそれに怯んで大人しくなることを学んだ。流石にそこまでの貫禄は出せないけれど、夜散歩してたら寺で野犬十数匹に囲まれたことがあって、死ぬかと思ったけど持っていた傘を振り回して地面を踏み鳴らしまくってたら案外奴らもビビって飛び掛かって来たりはしなかった。この成功体験から、犬、恐るるに足らずという感じになったんだけどでも今回は手に持っていたのが折り畳み傘だけだったし久々だったしそもそもタイの犬と違ってポルトガルの犬はより好戦的かも知れないしでとにかく逃げた。すると段々吠声が遠くなっていった。勝利。っていうか逃げただけだけど。まあ生存競争では生き延びた方が勝ちなので。
 アスファルトの舗装道に出て助かった、と思って緩い坂を上る。カーブのところにあったくたびれた家がいい味を出してたから立ち止まってまた「ビビッド」で撮った。そしたら後ろからチャリを漕いで来た黒人男性が「all right」と声を掛けて去って行った。yeahと返す。それからまたしばらく道を歩くと大通りに出て、その道を左折してずっと歩けば中心街だ。コーヒー牛乳が美味しかったので、同じスーパーでもう1パック買うことにした。夕食用に何か魚を買おうと思った。こちらの値段表記はkg単位で、魚を指定して測ってから袋に値札を貼ってもらってレジに持って行く。小型の魚を三尾買った。半額セールだかで30セントくらいで買えた。めちゃくちゃ安いな。女性店員がポルトガル語で何か言ってくれたのだけれど意味が分からなくて曖昧に頷く。すると彼女は手袋で魚の腹の辺りを指で抓んで内臓を取ってくれた。リンプゥ? と訊かれた気がして、ドミに戻ってから調べると「きれいな」と出た。スペルはLimpãoらしい。こうやって、日常の中に非日常が常に存在している感覚が堪らない。そしてその非日常が、それを知ることによって一つずつ日常へと反転してゆく。俺はそのダイナミズムを味わいたくてこんな暮らしをしているんで、だからやっぱり学校は嫌いだ。とにかく未来に備える為に覚えろという。お前が覚えた言葉の数がそのままお前の未来の可能性だという。でも、そんなのやっぱり嘘っぱちだ。人間はどうやったって死ぬのだから、結局のところ「生きること」自体に意味はない。それでもその無意味な生をどうにか生き凌いで行く為には、その瞬間の刺激にどれだけ酔えるかということだけが唯一、決定的な意味を持つのではないか。その瞬間が退屈なら、それはもう死んだと同じことなのだ。そして「備え」というのは結局のところ、「その瞬間」を殺し続けることに外ならない。勿論、それがしたい人はそうやって生きればいいと思うけれど、押し付けられては堪らない。日本で暮らす日常には余りに選択の自由がないと思う。備えないお前が悪いのだと。そう言われたら、じゃあ悪として生きてやろうかって気に、やっぱりなるじゃん。
 とにかく、旅はサイコー。

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