Don't touch it

美術館の監視員。時給が異様に高かったので、志望動機はテンプレのまま、アプリの『応募する』ボタンをタッチした。まさか応募が通るとは思ってもいなかった。履歴書が不要なのは嬉しいが、スーツが必要とのことだったので、急いでスーツを用意した。

7月某日の早朝、コボナウイルスとやらで外出自粛が叫ばれ、休日の日中だというのに人通りは少ない。梅雨がまだ続き、蒸し蒸しする暑さが、容赦なくスーツの体に襲いくる。人目を気にして着けているマスクが一番暑苦しいので、今すぐにでもぶん投げたいのだが、ボランティアの誰かが苦い顔をしながらトングで回収するのだと思うと胸が痛い。これを滑稽だと鼻で笑う人種が居るのだと言うから、さらに心地は良くない。

そんなこんなで駅近くの美術館に着き、フロントに問い合わせると、支配人のような中年男性が現れた。そのまま従業員室に招待され、軽く説明を受ける。トラブル発生時の避難誘導の流れや、お客様に聞かれた際の作品の説明のカンペメモを頂いた。そんな私が監視するのは、美術館の奥にある小さなギャラリーの真ん中に一つ佇む、ガラスケースの中に佇む『卵』という作品だった。ふさふさな緑の毛並みの楕円型球体、言うなれば『まりも』であった。

時給1500円というから大変な業務なのかと思いきや、椅子に座っているだけである。お客様は少ないし、基本的に『分かっている』客しか来ないので質問されることもない。更にエアコンがよく効いているので快適である。姿勢よく座りながらアート分かってる風の顔をして、脳内ではこの給料を何に使おうかと楽しみにしていた。

さて、ところで私は今、閉じ込められている。

思いもよらぬ大規模な地震のトラブルが発生し、客を避難誘導したのは良かったものの、私は強固なシャッターに阻まれてしまった。『まりも』を守っていたガラスも割れた気がしたが、停電になったため何も視えない。もはやこの暗黒空間でさえも芸術作品なのではないかと思えてくる。

あの『まりも』は無事だ。コロンブスもびっくりの直立不動である。しかも青信号の如く、いやそれほど主張はしていないのだが、うっすらと緑色に光っている。何事もなかったかのように居座っている。しかしこの空間においては唯一の光源であるので、散らばったガラスを靴で退かしながら、その傍らに座っていた。

なにもしないというのは癪なので、シャッターを全力で叩いたりしてみるが、ビクともしない。叫んでみても、防音設備のため虚しくなるばかり。べそをかこうが苦しみもがこうが、『こいつ』は呑気に光っている。梶井基次郎の檸檬のように、爆弾になってくれないだろうか、どうにか活路を開いてくれないだろうか。しかし芸術家というものは独特は完成を持ち合わせていても、マッドサイエンティストではない。爆発機能なんてついてるわけが無い。それは分かっているが、『こいつ』の光が消えた時、一体何が起こるだろう?

「二人っきりだね……///」

気でも触れたか。まるでそそられない。『まりも』に欲情もクソもない。だが不意に吊り橋効果というものを思い出してしまい、ますます恐ろしくなった。お父さん(製作者さん)、娘(まりも)を僕(フリーター)にください!絶対に幸せにして見せます。脳の状態があまりによろしくない。

様々なバイトを転々としてきた私だが、このようなトラブルの被害者になろうとは思いもよらなかった。脱出ゲームの要領でどうにかできないものだろうか?アイテムを紹介しよう。ガラスの破片、手を触れるなと書かれた札、『こいつ』、以上だ。窓はない、壁は分厚い、出口は強固なシャッターの先。思い出した、これは脱出ゲームではない。詰んでいる。世界は非情で残酷だ。

……どれほど時間が経っただろうか。スマホは休憩室だ。エアコンなんて作動してる訳がない。最大気温30℃の夏場、停電、閉塞空間、よって釜茹での茹でだこの完成である。命の危機であることには変わりないのでスーツを脱ぎ捨てる。マスクなんてものはぶん投げた。ハンカチは汗を吸い取ったおかげでほぼ水浸しとなっていた。だが、これでも運動部の経験はあるので、こうした暑さには自信がある。某配達センターの倉庫整理のほうが大変だった。

ここで、緊急事態が発生する。

喉が渇いた。お腹が空いた。

人間の、いや動物たるものどうしても逃れえぬ生理現象である。特に今日は朝から飲まず食わずにいた。ふと、『こいつ』が目についた。触るなという札を無視し、『こいつ』を手に持った。この暑さなら卵焼きが出来そうだ、汗は嫌だがハンカチで包めばボイルドエッグにもなる。なんて想像し、よだれが止まらなくなった。緑色は食欲減衰の色だとか言われるが、そんなことはどうでも良かった、食べられれば何でもいい。食いたい、お前を食いたい。

雑に『こいつ』を振り回していると、耳が反応した。僅かに卵の中から音がした。間違いない。その『まりも』を大きく振りかぶって、シャッターにぶつけると、中からは小分けにされたマシュマロが大量に出てきた。これは驚いた!飢えた獣のそれである、そのマシュマロを容赦なく口に放り込む。じゅわっと甘い汁が口の中に広がる。身体が涼しくなる。少しだけ変な味がするような気がしたが、きっと暑さにやられて、味覚がおかしくなっているのだと思い、気に留めることはなかった。

……暗黒空間、もはや宇宙のような無重力感のような、無限の時間が感じられた。やっとシャッターが開かれ、眩しい光が差し込む。大勢の人々が私を出迎えた。マイクを持った女性が現れ、『どうでしたか?』と聞いてくる。口を開く元気も無かったので、無視した。有象無象が、私の姿を見て喜んでいるように心無い演技をしている。酷い演出だ。フリーターの社会的価値なんてそんなものである。見ろ、小中学校で私をいじめていた怪物どもが泣いている。私の元同級生を名乗る役者がカメラに向かってペラペラペラペラ喋っている。私を勘当した赤の他人が私の家族ヅラをしている。しかし怒る気力も苦笑いする気力も残っていなかった。爆破テロでも起こしてやろうかと、カメラに向かって精一杯のファンサービスをした。

製作者さんと支配人の中年男性が現れ、私に謝罪してきた。いいや、謝罪するのはこっちだ。『あれ』を割ってしまったのだから。しかし、『あれ』が無ければ間違いなく死んでいた。マシュマロを入れるとは、素晴らしいセンスですね!なんて言うと彼は顔を青ざめて言ったのだ。

「卵の中には、何も入れてないはずだが……?」

ウミガメのスープが頭をよぎった。これから生まれてくる生命の殻を破り、その壮大なエネルギーを私が貪ったのか?あのマシュマロは、一体何だったのだ……考えるのをやめた。考えてはいけない気がした。

給料は、30万を超えていた。そこではじめて、私は笑みを浮かべたのだ。

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