デザート・ヒーラー

信号を待つ、その僅かな時間の隙間で迷子になって、私は足を踏み出せない。
何処へ、行こうと云うのだろう?私は?
意識が、意思が、蒸発する。夏の陽に灼かれる氷柱のように、静かに、脆く、それは陽炎う。
何処へ、行こうと云うのだろう?私は、私を確認する。
グレーのスーツ、スカートは膝丈。肩掛けのフラップバッグ。右手にハンカチ、左手に林檎のマークの携帯電話。
ちいさな画面で、地図を開いてみる。それは優しい。地図アプリケーションはいつだって、操作者を画面の真中に表示してくれる。まるで主人公。自分が、常に世界の中心に在るかのような、甘い気安め。

だけど今日は、優しくない。
情報を演算中であることを示す矢印は落ち着きなく正円を描いて回り続け、現在地は、私は、世界の軸は、揺れ動く赤い点となって、明滅する。

エラー。アプリケーションの。

瞳を閉じて、首を振る。強く振る。二度、三度。
出鱈目で乱暴な、再起動のおまじない。
そう。甘い。甘ったれた。シュガースイートな。気安めの、ような、そして。

そっと
息を吸って
吐いて
目を開けたら。

街は褪せて、砂漠に在った。

エラー。アプリケーションの?
違う。きっとこれは、私自身の、或いは世界の、

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生家の庭に、ちいさな砂漠が在って、時折、世界を呑んだ。
知らぬ顔を、して暮らした。
けれどそれは確かにそこに在って、朝に夕に、ざあざあと微かに鳴り、ざあざあと、密かに穏やかに、抱き寄せるように、或る日そっと、母を呑んだ。

「世界が、半分消えたような、そんな気分だよ。」と、ただ気丈に笑って見せる為だけに笑った、父の吐くハイライトの紫煙が、下弦の月の白い光の中に、吐き出す度に、吐き出すままに、すうっと、砂漠に沈む夜に、私たちは縁側に座って、恐らくは初めて、ふたり並んで、まっすぐに、砂漠を見て、それは在って、そこに確かに在って、怖くは無いけれど、さみしくてかなしい。と。感じて、それから三日後に父が呑まれて、「ああ、これで、父の世界の、もう半分も、消えたのだな。」と思って、遺されたハイライトに火を点けて、吸い込む煙は案外に濃くて、喉を焼いて、沸き上がる嗚咽を止められず、吐いて、吐いて、吐いて搾り切った肺に、ひょい、と砂漠が這入りこんだ。

以来、砂漠は、私の中に在る。

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陽射しを避けて宛てもなく歩き、歩いて、手の中の地図は未だ演算中で、矢印は円を描き、現在地を示す点は、はにかむ様に薄れて消えて、私は迷子で、今は夏の夜で、赤い扉が見えて、体重を預けるように、それを押すと易しく開いて。
易しく開いて、ほっとする。

こんばんは、飲み物をひとつ、いただけませんか?
どうぞおかけなさい、炭酸水を差し上げましょう。
そんな意味の、言葉を遣り取りして、私は酒場の客になる。

薄暗い店内には、柔らかい音量で、歌の無いレコードが流れていて、カウンタの隅の席では、笑わない青い男が、じっと掌を眺めていて、水菓子と深夜の匂いがして、背の高いグラスは一息に干されて、ぱちぱち。と、弾ける檸檬の炭酸が、食道を駆け上がって来るのを、苦労して、そっとハンカチに逃がす。

「渇いていたんですね。」とマスターが笑い、そうなの、私、渇いているんです。と笑い返して、改めてメニュを受け取って、でもカクテルの名前なんて知らない。

「なにか、」と曖昧に注文しながら、そうだ、確かに「なにか、」を私は求めていて、でもそれが私の本性なのか、それとも私の中の砂漠が渇求するのか、もうわからない。「なにか、」「なにか、」「もっと、なにか、」呑んで、しかし満ちる事を知らない、私の砂漠。静かで穏やかな、荒涼。ざあざあ、と鳴るその冷たい熱砂に、私の恒常性は耐え得るのだろうか?壺中の蛇が壺を呑む、そんな手品に私は怯えて、怯える、私は、酒場のカウンタに在って、しかし同時に砂漠に在って、足に膝に砂を纏って、撒いた水は虚しく透過して、渇き続けて、ねえ、でももう、じょうろは、空っぽなのに!

「可愛い、らくだですね。」とマスターが笑う。
橙色のグラスが、音も無く置かれて、清新な香りが、私を誘う。
「らくだ?」と私は訊く。
「いや失礼。目が合ったものですから、つい。」詫びを口にしながら、私の胸の辺りに目礼する。

私の砂漠が見える人には、時折出逢う。でも。
「らくだが、いますか。知らなかったな。マスターは、目が良いんですね?」
「ええ。目が良いんです。」
「どんな、らくだですか?」
「さて、親子でしょうか。それとも夫婦?並んで、仲良く水を飲んでいますよ。とても美味しそうだ。」
「水が、在るのですか?」
「砂漠には大抵オアシスが在って、水と緑とが在るものです。」
「そうですか。砂漠にも、水が、在るのですか。」

私は私の砂漠を視る。
それはちいさな砂漠で、ざあざあと鳴る渇いた場所で、だけどちいさなオアシスが在って、らくだは肩を並べて水を飲む。ちゃぷ、ちゃぷ。

私も私のグラスを空ける。ごく、ごく、ごく。オレンジとさくらんぼの、甘酸い香り。

汲んで、撒け。と私は思う。汲んで、撒くのだ、砂漠に水を。私はそう思う。そう誓う。

らくだはまだ、水を飲んでいる。私も、もう一杯だけ飲もうと決める。

砂漠の夜は冷えるかしら、と。
私は少しだけ、彼らの事を心配する。

/了