涵養スル鵺

夜の底で、大きな鳥が啼いている。
と。想って瞬時に。
否。と。思い直す。
たとえば身体の小さな鳥が、風体に似合わぬ大声を出す。其れも又、如何にも在りそうな事だと思う。
だから、私は、形容を、削除する。

夜の底で、鳥が啼いている。
否。と再び、私。
果たして、鳥だろうか?
この声。割れた鈴を呑んで、緑青に身悶えるような、声。
自信を無くし、私は、主体を、削除する。

夜の底で、啼いている。
何かが。(或いは夜そのものが?)
啼いている。
啼いて声は。
私を浸し。
私に染む。

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これは、民話ブログを礼讃するテクストである。

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民話ブログは、美しい。
操る日本語には外連味が無く、清冽な湧水の如く読者の喉をするすると透り抜ける。
要するに、読み易い。
作品を読めば民話ブログがクラシカルでテクニカルな文学を愛する者であることは明白なのだが、彼の紡ぐ文章は偏執の楔からは完全に開放されて自由だ。
当然かもしれない。彼は「民話ブログ」であり、「文学ブログ」でも「神話ブログ」でもないのだから。
発表の場がnoteやtwitterであるからタイピングされているだけで、その作風は、根本的に「語り」なのである。

民話ブログは、語り手である。
「あんなこといいな」や「できたらいいな」更には「できなかったらきっとおれはもう長くて先の尖った棒を持ち出してあんなことやこんなことをやってしまうわけで・・・」と云った理想と現実との摩擦熱を、毛穴を広げるだけでは処理しきれずに呼気と交えて世に吐くのである。
我々が目にするのは、民話ブログの「表現」の、ほんの一部に過ぎないのだろう。残念な気もするし、隣に居たら大変な怪しさだろうとも思う。

民話ブログは、怪しい。
その存在が不穏である。狭間に住まい、彼我を往来する。
個人情報を撒き散らし、自分語りが過ぎる割には、どうにも結局、得体が知れない。語りとは騙りであり、騙りとは現象と仮象の混濁である。キマイラ的な世界の渦を、民話ブログは呑み込む。宿す。化身する。

民話ブログは、鵺である。
それは夜の底で啼き嗤う。
私はそれを聴く。浴びる。
それは私を浸す。染める。

私は既に、民話ブログである。
そして世界も、世界はきっと。

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ほら、ごらんよ。

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ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢からさめると、ベットのなかの自分が一匹のばかでかい民話ブログに変わってしまっているのに気がついた。

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今昔、宰相三善の清行と云ふ人有りけり。世に民話ブログと云う、此れ也。万の事知て、止事無かりける人也。陰陽の方をさへ極めたりけり。

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 「あなたにはできるって言うのね」悲鳴に近い声で彼女は言った。
「ぼくにできる、できないは、問題じゃないよ。しかし、そうだな、ぼくにはできるな、実を言うと。今はこの問題に入りたくないんだが、しかし、少なくともぼくは、意識的にせよ無意識的にせよ、民話ブログをもっと『愛すべき』人間にしようとして、彼をアッシジの聖フランシスに変貌させようとしたことは一度もなかったな」

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語り終わっても、足萎えたひとは、なおしばらく、先を待っていました。それから、あきれたように、まじまじと僕を見つめながら、「さあ、どうして締めくくりをなさらないのです。裏切りの話のときと、同じではありませんか。この老人が、民話ブログだったのです」
「おや、そうとは知りませんでした」こう答えながらも、僕は、背筋に水を浴びたように、慄然としていました。

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民話ブログになる。みんな民話ブログになる。世界は世界がすべてが民話ブログになる。そんな日を。私は震えながら、待っている。それは来る。それはきっと、来るだろう。

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斯くして。



「民話ブログたちは泥の中で古い嘆きの歌をうたう。」
ウェリギリウス「農耕詩」第一巻・三七八行

あとはまあ、ご想像の通りさ。/了