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大ヒットドラマ「キリング・イヴ」原作小説 冒頭30,000字 大公開!

■あらすじ

【U-NEXT独占配信中!エミー賞8部門ノミネートの大ヒットドラマの原作小説】
MI5の捜査官イヴ・ポラストリは、ある殺人事件の目撃者の証言から容疑者が女性だと知り、さらにここ最近起こった未解決の殺人事件がいずれも同じ犯人によるものなのではと疑っている。一方、暗殺者ヴィラネルはトゥエルヴと呼ばれる組織から次の任務を命じられる。ターゲットはロシア人の極右論者、場所はロンドン。追う者と追われる者の対決の行方は? ヴィラネルが暗殺者になるまでの過去も描かれるシリーズ第1作目。

■本文

 ファルコニエーリ離宮は、イタリアによくある小さめの湖の上にそびえる断崖の上に立っている。六月の下旬で、ごつごつした岩がちな岬をマツやイトスギの枝が歩哨のように取り巻き、そのあいだをかすかな風が吹き抜けていた。いくつかある庭園はどれもみごとで、美しいとすら言えたが、黒々とした濃い影がこの場所に禁断の雰囲気をもたらしていた。宮殿そのもののいかめしい輪郭もまた、その雰囲気を濃くしている。
 建物は湖に面しており、正面に並ぶ縦に長い窓から、絹のカーテンが見てとれる。東の棟には、かつて晩餐会が開かれていた大広間があるが、現在は会議室として使われている。部屋の中央には、アールデコ様式の重厚なシャンデリアの下に長方形のテーブルがあり、その上にはブガッティのブロンズのパンサー像が置かれている。
 テーブルを囲んで座っている十二人の男たちは、一見したところ、ごくふつうに見えるが、主張しすぎない高価な服から、成功者たちだとわかる。ほとんどが五十代後半から六十代のはじめで、人の記憶に残らない、すぐ忘れ去られるタイプの顔をしている。だが、この男たちがまとっている用心深さは一瞬の隙もなく、ふつうとは言えない。
 午前中は討論に費やされた。討論はロシア語と英語でおこなわれた―その二つが出席者全員の共通語だった。それから、テラスで軽い昼食が出された。前菜、レイクトラウト、きりりと冷えたヴェルナッチャの白ワイン、フレッシュなイチジクとアンズ。食後に、十二人はめいめいコーヒーを注ぎ、静かな風に波立つ湖面を眺め、庭園を散歩した。警護の者はいない。このレベルの機密になると、警護の者自体が危険要因となりうるからだ。そしてほどなく、男たちは薄暗い会議室のそれぞれの席にもどっていった。この日の会議内容が〝ヨーロッパ〞を導いてゆくのだ。
 最初の発言者は、年齢に似ず若々しい、黒く日焼けした、奥まったかなつぼまなこの男だった。周囲を見まわし、それから口を開く。「諸君、午前中はヨーロッパの政治と経済の未来について議論した。特に、キャピタルフローとそれをコントロールする最良の方法について話しあった。この午後は、ちがう種類の経済について話をしたい」
 部屋がいっそう暗くなり、十二人は北側の壁にかけられたスクリーンに顔を向けた。そこには地中海の港が映し出されていた。たくさんのコンテナ船と、船から陸に荷揚げするガントリー・クレーンが並んでいる。
「パレルモだよ、諸君。昨今、コカインをヨーロッパへ運びこむもっとも重要な都市だ。メキシコの麻薬カルテルとシチリア・マフィアが戦略的に手を組んだ結果だ」
「シチリアのやつらはもう盛りを過ぎた勢力なんじゃないか?」左隣のいかつい体躯の男が言う。「昨今の麻薬取り引きは本土のシンジケートが仕切ってると思ってたよ」
「かつてはそうだった。一年半前まではどこのカルテルも、イタリア南部のカラブリア州を拠点とするマフィア、ンドランゲタと取り引きしていた。だがここ数か月のあいだに、復活したシチリア・マフィアのグレコ一族とカラブリアのやつらとのあいだで抗争が起きているんだ」
 スクリーンに男の顔が映し出された。冷酷で油断のない黒い瞳。鋼鉄のトラバサミのようにがっちりと食いしばった口。
「サルヴァトーレ・グレコ。一九九〇年代にコーサ・ノストラとの権力争いに敗れて失墜した一族を復活させることに人生を捧げてきた男だ。父親がライバルのマテオ一族の一員に殺されたからな。そして二十五年後、サルヴァトーレは生き残っているマテオ一族を全員殺した。このグレコ一族と、やつらが手を組んでいるメッシーノ一族が、現在シチリア・マフィアのなかでもっとも金と力を持ち、もっとも恐れられている。サルヴァトーレは自身の手で少なくとも六十人を殺し、さらに数百人の殺人を命じたことで知られている。五十五歳にして彼は、パレルモとその地の麻薬取り引きを絶対的に支配している。彼の事業は全世界に広がり、収益は二百億から三百億ドルに及んでいる。諸君、彼はまさしくわれわれの仲間と言える」
 ほとんどおもしろがっているというに近いかすかなざわめきが室内に広がった。
「ここで問題にするのは、サルヴァトーレ・グレコが拷問と殺人を好むことではない」男は話を続ける。「マフィア同士の殺しあいは自浄作用とも言えるものだ。だが最近、彼は社会の権力者層にいる人々の暗殺を命じはじめた。これまでのところ、下級裁判所の判事ふたりと上級裁判所の判事四人が自動車爆弾で殺され、それを調べていた女性ジャーナリストが先月、アパートの前で射殺された。ジャーナリストは死亡時、妊娠していて、その子どもも助からなかった」
 男は言葉を切り、スクリーンに目を向けた。そこには、アスファルトの血だまりの上に大の字に横たわっている死んだ女性が映っていた。
「言うまでもないことだが、これらの犯罪のどれも、直接グレコに結びつけることはできていない。警察は賄賂を贈られたか脅されたかしたようで、目撃証人たちはおびえている。沈黙の掟―イタリア語でオメルタ―が幅を利かせているからだ。サルヴァトーレにはどうやっても手が届かない。ひと月前、わたしは仲介者を送って面会を打診した。彼とはいくらかの調整をする必要があるように思ったのでね。ヨーロッパのこの一角での彼の活動が過激になりすぎて、われわれの利益とぶつかる恐れがあるからだ。グレコの反応は速かったよ。その翌日、わたしは密封された小包を受け取った」スクリーンの映像が変わる。「ご覧のとおり、小包の中身はわたしの仲間の両目と両耳、そして舌だ。メッセージは明確だ。会わない。話をしない。調整などしない」
 テーブルを囲む男たちは少しのあいだその陰惨な画像を見つめ、それから話し手に目を戻した。
「諸君、われわれはサルヴァトーレ・グレコについて、世界を動かす者としての決定を下す必要に迫られている。彼は非常に危険で、手に負えない勢力だ。法の手も届かない。彼の野放図な犯罪行為と、それらが必然的にもたらす社会の無秩序は、この地中海地域の安定を脅かす。彼をこのゲーム盤から永久に除去することを提案する」
 話し手は椅子から立ち上がり、サイドテーブルまで歩いていくと、古めかしい漆塗りの箱を持って、席にもどった。黒いベルベットの巾着袋を取り出し、その中身をテーブルに振り出す。象牙でできた二十四個の小さな魚。十二個は古びてなめらかな黄色みを帯びている。あとの十二個は血のような赤黒い色に塗られていた。男たちはそれぞれ、二種類の魚を受け取った。
 ベルベットの袋がテーブルを反時計回りに巡っていった。一周し、袋は提案者にもどった。ふたたび、袋の中身がうっすらと輝くテーブルの上に広げられた。赤い魚が十二。満場一致で死刑が宣告された。

 二週間後の夕暮れ、パリの十六区にある会員制クラブ〈ル・ジャスマン〉の屋外テーブルに、ヴィラネルは座っていた。東からはスシェ大通りを流れる車の静かな音が聞こえ、西にはブローニュの森とオートゥイユ競馬場が横たわっている。クラブの庭を仕切っているトレリスにからみつく花盛りのジャスミンの香りが、なま暖かい空気に濃厚に浸み入っている。ほかのテーブルはほとんど埋まっていたが、会話の声はひそやかだ。日の光はしだいに薄れ、夜の帳が下りようとしていた。
 ヴィラネルはフランス最高級のグレイグース・ウォッカを使ったマティーニをゆっくりと口に含んで味わいながら、油断なく周囲に目を配っていた。特にすぐ隣のテーブルのカップルに注意していた。カップルはどちらも二十代半ばだ。男は服装も態度も小粋な感じの崩し方をしており、女は猫のようなところがあって魅力的だ。兄と妹だろうか? それとも仕事の同僚? 恋人たち?
 絶対に兄妹じゃない。ヴィラネルは判断した。ふたりのあいだに漂う緊張感―共犯者のような―は絶対に家族のものじゃない。でも、どちらもかなり裕福だ。たとえば彼女のシルクのセーター。彼女の目の色と同じダークゴールドのセーターは新しいものではないが、シャネルに間違いない。それにふたりはテタンジェのヴィンテージものを飲んでいる。そのシャンパンはこのクラブでは安いとは言えない。
 ヴィラネルの目が男の目と合った。男はシャンパンのフルートグラスを一、二センチ持ち上げて見せ、連れの女にささやきかけた。女は値踏みするような冷ややかな眼差しをヴィラネルに向けた。
「ご一緒しません?」女が言う。それは招待であると同時に挑戦でもあった。
 ヴィラネルはまばたきひとつせずに平然と見つめ返した。濃厚な花の香りに満ちた空気を、かすかな風が揺らした。
「無理にとは言いませんよ」男が言う。ちょっと口元をゆがめた笑みは、眼差しの冷静さとはそぐわない。
 ヴィラネルはグラスを持って立ち上がった。「ぜひご一緒させていただきたいわ。友だちを待ってたんだけど、彼女、ドタキャンしちゃったみたい」
「そういうことなら……」男は立ち上がった。「ぼくはオリヴィエ。こっちはニカだ」
「ヴィラネルよ」
 型どおりの世間話がはじまった。オリヴィエは最近、美術商の仕事をはじめたところで、ニカはときおり女優として働いている。このふたりは寝てはいない。それに間近で観察しても、恋人どうしという雰囲気はいっさいない。それでも、このふたりの関係性には微妙にエロティックなものがあり、そこにヴィラネルは引きつけられたのだ。
「わたしはデイトレーダーよ」ヴィラネルはふたりに言った。「為替とか、株価とか、そんなの」ふたりの目から即座に興味の光が失せていくのを、満足げに見てとる。必要なら、デイトレーディングの話を何時間でもできるが、このふたりは知りたくもなさそうだ。そこでヴィラネルは、仕事場にしているフラットの話を―ヴェルサイユにあって、陽当たりがよく、二階にあることを話した。実際には存在しないが、バルコニーにある鋳鉄製の手すり柵の唐草模様や、床に敷いてある色あせたペルシャ絨毯に至るまで、こと細かに描写できる。ヴィラネルのつくり話は今や完璧の域にあり、噓八百をまくしたてるのは、いつもながら、すさまじい快感をもたらした。
「あたしたち、あなたの名前も、目も、髪も大好きよ。それに何より、あなたの靴が大好き」ニカが言う。
 ヴィラネルは声をあげて笑い、細いストラップが巻きついたサテン地のルブタンをはいた両足をこれ見よがしに動かした。オリヴィエの視線をとらえて、わざと彼の物憂げな態度をまねて見せる。彼の両手がなまめかしく、わが物顔に自分の身体をなぞるさまを想像する。おそらく彼はヴィラネルを、美しい蒐集品のように眺めている。そしてそれをうまく隠せていると思っている。
「何がおかしいの?」ニカが小首をかしげ、煙草に火を点けた。
「あなたが」ヴィラネルは言う。あの金色の眼差しに吸いこまれたらどんな気がするだろう? あの煙草くさい口を自分の唇で受け止めたら。今やヴィラネルは楽しんでいた。オリヴィエもニカもあたしをほしがっている。ふたりとも、このあたしをもてあそんでいると思っている。まだしばらく、そう思わせておいてやろう。このふたりを操るのはおもしろそうだ。どんなことになるか、とことん見てやろう。
「ひとつ提案があるんだ」オリヴィエが言う。そのとき、ヴィラネルのバッグにはいったスマホが震えはじめた。明るく光るスクリーンに一語だけのメッセージが出ていた。『要接触』ヴィラネルの顔から表情が消え、彼女は立ち上がった。ニカとオリヴィエをちらりと見るが、もはや彼女の脳内にふたりは存在していない。ヴィラネルは無言でその場を離れ、一分もたたないうちにベスパに乗って北向きの車の流れに加わっていた。
 このメッセージをよこした男にはじめて会ったのは、今から三年前だ。今のところコンスタンティンという名前しか知らない男。あのときから、ヴィラネルの状況は一変した。それ以前の彼女の名前はオクサナ・ヴォロンツォヴァ。公式にはロシア連邦の西部にあるペルミ大学のフランス語学科の学生として登録されていた。その六か月後に最終試験を受けることになっていたが、大学の試験場に足を踏み入れることはできそうになかった。なぜなら、その前年の秋から、別の場所に勾留されていたからだ。ウラル山脈にあるドブリャンカ女性拘置所に。殺人の被疑者として。

〈ル・ジャスマン〉からパシー門の近くにあるヴィラネルのアパートまでは、バイクで五分ほどの距離だ。一九三〇年代に建てられた大きな建物は、特に目立つ特徴もなく静かで、セキュリティのしっかりしている地下ガレージがついている。ベスパを自分の車―スピードがよく出て、特に目立ちもしないシルバーグレーのアウディTTロードスター―の横に停めて、ヴィラネルはエレベーターで六階に上がり、そこからさらに短い階段を上ってペントハウスに入った。玄関ドアはこのアパートのほかの住居と同じパネル材だが、スチールで補強されており、オーダーメイドの電子錠が取り付けられている。
 ドアの内側は多少古びてはいるものの、快適で広々とした住居だ。一年前、ヴィラネルはコンスタンティンからここの鍵と権利証書を渡された。自分の前に誰が住んでいたかは知らないが、引っ越してきたときには家具類が完全にそろっていた。家具調度がどれも何十年も前の製造品なのを見ると、前の住人は老人だったのだろう。部屋を飾りたてることにいっさい興味のないヴィラネルは、室内を入居時のままにしてある。どの部屋も色あせた青緑色とフレンチブルーの壁紙が張られ、特に目を引きもしない後期印象派の絵が飾られていた。
 これまで、ここに彼女を訪ねてきた者はない。仕事関係の顔合わせはカフェか公園を使っていたし、性的な交渉はたいていホテルでおこなっていた。だが、もしここを使うことになったら、この住居はヴィラネルの噓八百を完璧に裏づけてくれる。書斎にあるステンレススチールの最新型の極薄ノートパソコンは、生半可な腕のハッカーだと即座に迂回するようなセキュリティ・ソフトで護られている。だが、その中身を見たところで、うまく成果を上げているデイトレーディングの明細ぐらいしか入っていない。ファイルキャビネットの中身もやはりほとんど意味がないものばかりだ。オーディオセットもいっさいない。ヴィラネルにとって音楽とは、せいぜい無駄ないらだちのもと、悪く言えば死に通じる危険なものだ。安全は沈黙のなかにあり、だ。

 拘置所の状況は言語に絶するひどさだった。食事はかろうじて食べられる程度で、衛生設備など存在しない。ドブリャンカ川から吹いてくる凍えるような寒風が、陰鬱な拘置所の建物の隅々までしみわたっていた。少しでも規則違反をすると、長々と独房に監禁される。オクサナはそこで三か月間をすごした。それから、何の説明もなしに独房から施設の中庭まで歩かされ、傷だらけの不整地走行車に乗れと命じられた。二時間後、ペルミ地方の奥地に入り、凍りついたチュソヴァヤ川にかかる橋のたもとで車は止まった。運転手が無言で、天井の低いプレハブ小屋に入れと指示した。小屋の横には、黒い四輪駆動のメルセデス・ベンツが止まっていた。狭い小屋のなかにはテーブルひとつと椅子二脚とパラフィンストーブがあるだけだった。
 椅子の片方に、分厚いグレーのコートにくるまった男が座っていた。男はオクサナをじっと見つめた。すりきれた囚人服、やつれた風貌、それでもなお傲岸不遜な態度。「オクサナ・ボリソーヴナ・ヴォロンツォヴァだな」テーブルの上のフォルダーに印刷された文字を見ながら、ようやく男は口を開いた。「年齢、二十三歳と四か月。罪状、三人の殺害、及び加重要素多数」
 小さな四角い窓に切り取られた雪に埋もれる森を眺めながら、オクサナはじっと待った。この男は、見たところごくふつうだが、人に操られるようなタマではないことはひと目でわかった。
「二週間後、きみは裁判を受ける」男は話を続けた。「そして有罪判決が出るだろう。それ以外に考えうる結末はない。ふつうならきみは死刑になるだろう。よくてもこれから先二十年を、ドブリャンカがリゾートホテルに思えるような流刑隔離施設で過ごすことになるだろう」
 オクサナの目はうつろなままだった。男は高級輸入銘柄の煙草に火を点け、彼女の前に差し出した。それは拘置所での食事の一週間分のおかわりと引き換えにしてもいいようなものだったが、オクサナはごくかすかに首を振って、ことわった。
「三人の男の死体が発見された。ひとりは喉を骨に達するまでかっ切られ、ふたりは顔を撃たれていた。ペルミのトップ大学の外国語学科最終学年の学生に似つかわしいふるまいとはとても言えんな。まあ、たまたま彼女がスペツナズの接近戦教官の娘だったということがなければだが」男は煙草をふかした。「強さにかけては定評がある男だったよ、ボリス・ヴォロンツォフ曹長は。とはいえ、彼が副業で付き合っていたギャングどもともめたときには、役に立ちはしなかったが。背中に弾丸を受けて倒れて、そのまま路上で死んだ。犬みたいに
な。グロズヌイとペルヴォマイスコエで戦って叙勲された兵士にふさわしいとは言いがたい最期だったね」
 男はテーブルの下から携帯水筒と紙コップふたつを取り出し、ゆっくりとフラスクの中身を注いだ。濃い紅茶の香りが冷気に立ち昇った。紙コップのひとつをオクサナのほうに押しやる。
「〈ブラザーズ・サークル〉。ロシアでもっとも凶暴で残忍な犯罪組織のひとつだ」やれやれというように首を振った。「まったく、いったい何を考えてたんだね、こんなところの兵隊を三人も殺すなんて?」
 オクサナは蔑むような表情を浮かべ、そっぽを向いた。
「〈ブラザーズ〉より先に警察に見つかったのは幸いだったな。でなければ今きみと話せてはいなかっただろう」男は吸いさしの煙草を床に落とし、踏みつけた。「とは言え、なかなか手際のいい仕事ぶりだと言わざるをえない。きみの父親はよく仕込んだようだな」
 オクサナはもう一度男に目を向けた。黒髪、中背、おそらく四十歳ぐらい。動じずに見つめ返す男の目はほとんど好意的にも見えるが、うのみにはできない。
「だが、きみは何より大事なルールを無視した。つかまったんだ」
 オクサナは探るように紅茶をひと口飲んだ。テーブルの上に手をのばして煙草を一本取り、火を点けた。「で、あんたは誰?」
「きみが自由に話せる相手だよ、オクサナ・ボリソーヴナ。だがまずは、今から言うことが本当かどうか確認させてほしい」男はコートのポケットから折りたたんだ紙束を出した。
「きみの母親はウクライナ人で、きみが七歳のときに甲状腺ガンで死んだ。それが、十二年前のチェルノブイリ原発事故に由来する放射線被曝のせいだということはほぼ確実だ。そして母親が死んだ三か月後、きみの父親はチェチェン共和国に派兵され、その時点できみはペルミのサハロフ孤児院に一時預かりの身となった。きみはその孤児院で十八か月過ごしたが、そのあいだに孤児院の職員がきみの並外れた学力に気づいた。と同時に、ほかの特徴にも気づいた―おねしょ癖や、ほかの子どもたちとの関係性形成がほとんどできないということにね」
 オクサナが煙を吐き出すと、冷気のなかに灰色の長いすじが立ち昇った。彼女は上唇のごくわずかに盛り上がった傷痕に舌先でふれた。その仕草は、傷痕そのものと同様ほとんど見てとれないほどかすかなものだったが、コートの男は気づいていた。
「きみが十歳のとき、きみの父親はまた派兵された。今度はダゲスタンだった。きみはまたサハロフ孤児院に戻され、その三か月後、居住棟に火を点けているところを見つかって、ペルミの市立四号病院の精神科病棟に移された。きみを社会病質人格障害と診断したセラピストの助言に反して、きみは父親のもとに戻された。その翌年、きみは産業地区中等学校に入学。ここでもまたきみは学業の成績で―とりわけ語学の習得能力において―称賛を得た。が、またしても、いっさい友だちをつくろうとも、他人と関わろうともしないという特性も見られた。実際、きみが多数の暴力事件に関わったり、そそのかしたりした疑いがあることが記録に残っている。
 しかしながら、きみは独身女性のフランス語教師、レオノヴァ先生に愛着を持ち、彼女が深夜にバスを待っているときに襲われて強姦されたことを知ると、尋常でなく怒り狂った。彼女を襲ったとみられる男は逮捕されたが、そののち証拠不十分で釈放された。六週間後、その男はムリャンカ川の近くの森林地帯で、出血多量とショックによる錯乱状態で発見された。ナイフで去勢されていたんだよ。医者たちの努力で一命はとりとめたが、彼を襲った犯人は特定されなかった。これらの事件が起きたとき、きみは十七歳の誕生日を迎えようとしていた」
 オクサナは煙草を床に落とし、踏みにじった。「で、その話の行き着く先は?」
 男は笑みのようなものを浮かべた。「きみはエカチェリンブルクの大学対抗試合で、射撃の金メダルを取ったね。入学したての一回生のときに」
 オクサナは肩をすくめた。男は椅子から身を乗り出した。「ここだけの話だが、あの〈ポニークラブ〉の三人―彼らを殺したときにはどんな心地だった?」
 オクサナは男の目を見返したが、まったくの無表情だった。
「わかった、仮定の話としよう。きみはどんな気分になると思う?」
「そのときは、仕事をうまくやってのけたって満足を感じてたと思う。今は……」ふたたび肩をすくめる。「何も」
「何もないと言うが、これからベレズニキか、どこかほかの似たような場所で二十年を過ごすことになるんだぞ、わかってるかね?」
「そんなことを言うためにはるばるこんなとこまで連れてきたの?」
「オクサナ・ボリソーヴナ、実のところ、きみのような人々は世の中に受け入れてはもらえない。男にせよ女にせよ、生まれつき良心を持たず、罪悪感を覚えないきみのような人間はね。きみらは全人口から考えるとごくごくわずかな数だ。が、きみらのような……」男はもう一本煙草を点け、どっしりと椅子の背にもたれた。「きみらのような猛獣が―想像もつかないことを考え、いっさい不安やためらいを持たずに実行できる人々がいなければ、世界は静止してよどむ。きみらは進化を促すために必要なんだ」
 長い沈黙が続いた。男の言葉は、人生のこんなどん底の時期とはいえ、彼女がうすうすわかっていたこと―自分は人とはちがう特殊な人間だ、空高く舞い上がるために生まれてきた人間なのだ―を裏づけるものだった。オクサナは窓の外で待ち受けている車を見つめた。雪のなかで護衛のふたりが足踏みをしている。彼女の舌先がまた、ほんの一瞬、ちろりと上唇をなめた。
「で、あたしに何を求めてるの?」オクサナは訊いた。
 コンスタンティンはそれからのことについて、詳細はいっさい明かさずに話をした。その話を聞いていると、彼女のそれまでの人生すべてがこの一瞬に導かれていたように思えた。彼女の表情はぴくりとも動かなかったが、全身を貫いてこみあげてくるぞくぞくした感じは、
飢餓のように強烈なものだった。

 パリの上空、光がどんどん薄れていく。ヴィラネルは書斎の机の引き出しから、まだ箱に入ったままのアップルのノートパソコンを取り出し、梱包を解いた。ほどなくGmailのアカウントに接続して、件名が『ジェフとサラ―ホリデー・ピクニック』となっているメールを開いた。本文は二段落あり、カイロ市内とその周辺の観光地を巡っているカップルのJPEG画像が十二枚添付されていた。

『やあ、みんな!
 ぼくらは人生最高の時間を過ごしてるよ。ピラミッドはどれもすごいし、サラはラクダに乗った(添付の写真を見てね)! 家に帰るのは日曜日だ。7時42分着の飛行機で、9時45分には家に着いてるはずだ。じゃあみんな、元気でね―ジェフ。
 追伸:サラの新しいeメールアドレスは SMPrice88307@gmail.com だよ。メモしておいてね。』

 文字や単語の意味はいっさい無視して、ヴィラネルは数字だけを抜き出した。これがワンタイム・パスワードとなって、一見何の変哲もないように見えるJPEG画像に埋めこまれた圧縮データにアクセスできるようになった。秘密の通信偽装手法を教えてくれたインド人のシステムデザイナーの言葉を、彼女はよく覚えていた。「メッセージを暗号化するのは大変けっこうなんだが、たとえ絶対に解読不能のものであっても、人の興味を惹きつけるものだ。だから、そもそもメッセージがあるんじゃないかと誰にも疑われないようにするほうがいいんだ」
 ヴィラネルは写真を開いていった。それらは卓越した解像度で高度に迷彩装飾をほどこされているため、大量のデータを埋めこむことができる。十分後、彼女は隠蔽されたテキストをすべて抜き出し、それらを合わせた一通の文書を手に入れた。
 ふたつ目のeメールは『スティーヴの携帯』という件名で、本文はずっと短かった。電話番号がひとつあるだけで、アマチュアのフットボール試合のJPEG画像が六枚添付されていた。ヴィラネルは先ほどと同じ手順を繰り返したが、今回は数枚の人物写真の画像が出てきた。すべて同じ男のものだ。目の色ははっきりと黒と言えるほど濃く、頑固そうな口つきをしている。ヴィラネルはその写真をじっと見つめた。見たことのない男だが、その顔には見覚えがあると感じさせる何かがある。何かうつろな感じ。ちょっとかかって、それをどこで見たのか思い出した。鏡だ。自分の目だ。文書の件名は『サルヴァトーレ・グレコ』となっていた。
 現在の雇用主に自分をアピールできた、ほかにない特質のひとつに、写真記憶能力がある。三十分ほどかけてグレコのファイルを読み終えると、すべてのページをまるで目の前にあるかのように思い出すことができた。警察記録や観察記録、裁判の記録、情報提供者の供述などから抜粋されたそれは、グレコという男の人物像を徹底的に正確に描き出していた。とはいえ、すべてを考慮に入れると、それは腹が立つほど短かった。グレコの経歴表、FBIによる心理プロファイル。おおむね仮説に基づく、彼の家庭の状況についての分析、個人的な趣味やセックス上の性癖。彼の名義になっている財産の目録。わかっている限りのセキュリティ配備の分析。
 あらわれてきた人物像は、謹厳実直な男のものだ。世間の注意を惹くことを病的なまでに嫌っているこの男は、注目を避けることにとんでもなく長けていた―このようなマスコミ全盛の時代にあってもだ。だが同時に、彼の権力は大部分が彼の評判から生じている。拷問と殺人が日常茶飯事の世界にあって、グレコはその獰猛さで名を馳せていた。あえて彼の前に立ちはだかって邪魔をしたり、彼の権威に異議を申し立てたりする者がいれば、除去される。それも目を覆うような残虐さで。ライバルたちは家族全員が撃ち殺されるのを目のあたりにし、内通者は喉を切り裂かれ、その傷の穴から舌を引き出された死体となって発見された。
 ヴィラネルはパリの市内を見渡した。左手には、夕空を背景にエッフェル塔が黒々とそそり立ち、右手にはモンパルナスタワーのどっしりした黒い輪郭がそびえている。彼女はグレコのことを考えた。彼の行為や関わった事件のバロック的な恐ろしさと、彼の上品そうな見た目とを対比してみる。どうにかしてこの矛盾をこちらに有利なように持っていくことができないだろうか?
 もう一度文書ファイルを読み直し、何か手がかりはないかと一文ずつ目を通す。グレコの本宅は、パレルモ郊外の丘にある村の大きな農家だが、まるで要塞だ。彼の家族はそこで、忠実で油断のない武装したボディガードの一隊に守られて暮らしている。彼の妻のカロジェラはめったに家から出ない。一人娘のヴァレンティナは父親の相談役の長男と結婚して、隣村に住んでいる。この地域は独自の方言を用いており、頑なによそ者を敵視し拒んできた歴史がある。グレコが会いたいと思う人々―手を結んでいるクランの構成員、仲間になる可能性のある同業者、仕立て屋、床屋―は農家に招かれ、そこで身体検査をされ、必要があれば武器を取り上げられる。グレコがパレルモにいる情婦を訪ねるために家を出るときは、例外なく常に、武装した運転手と最低ふたりのボディガードを連れていく。そしてこの訪問に、予測できるような規則性はないようだ。
 だが、資料のなかのある文書にヴィラネルは興味を抱いた。イタリアの新聞〈コリエーレ・デッラ・セラ〉の五年前の記事の切り抜き。ローマにあるこの新聞社の専属記者が遭遇し、危うく死にかけた事故の報告だ。このブルーノ・デ・サンティス記者によると、『トラステヴェーレのレストランから出たとき、一台の車が通りの反対側の車線から記者をめがけてつっこんできた。次に気がついたときには、記者は病院にいた。生きていたのは僥倖と言えるだろう』
 デ・サンティス記者はかなり直截に、この暗殺未遂事件はその一か月前に〈コリエーレ〉紙に載せた記事のせいだとほのめかしていた。それは、フランカ・ファルファーリャというシチリア島出身の若いソプラノ歌手が、ミラノのスカラ座演劇学校に通うための資金を、〝悪名高い犯罪組織の首領〞サルヴァトーレ・グレコから受け取っていたことを批判する記事だった。
 それは勇敢ながらおそらく無謀と言える報道記事だったが、ヴィラネルが興味を抱いたのはデ・サンティスではなかった。グレコがファルファーリャにそんなに気前よくふるまったのはなぜだろう―いくらそうした出資を続けられる資金力があるとはいえ―という疑問を抱いたのだ。オペラへの愛、同郷の才能ある若い娘の可能性を引き出す手助けをしたいという思いだったのか、それとももっとずっと本質的な欲望のためなのか?
 ネットで調べてみると、ファルファーリャの画像がふんだんに出てきた。魅力的な容姿、飾り気がなくプライドが高そうな風貌。二十六歳という年齢以上に大人びて見える。本人のウェブサイトにもたくさんの画像があり、これまでの経歴や公演のレビューの抜粋、そして今後数か月間のスケジュールが出ていた。スクロールの手が止まる。目がすっと細くなり、唇の傷痕に人差し指の先がふれる。そしてヴィラネルはハイパーリンクをクリックし、パレルモのマッシモ劇場のウェブサイトに飛んだ。

 オクサナのトレーニングはほぼ一年がかりだった。
 最初がいちばんきつかった。風が吹きすさぶ人けのないエセックスの海岸でのフィットネス・トレーニングと素手での格闘訓練が六週間。エセックスに着いたのは十二月のはじめだった。教官はフランクという名前の英国特殊舟艇部隊の元教官で、六十がらみの頑健で寡黙な人物だった。北海と同じ冷たい目をしていた。どんな天候でも変わらず、いつも色あせた綿スウェットのトレーニングスーツと古びたテニスシューズを身につけていた。フランクは容赦なかった。ドブリャンカ拘置所で何か月も過ごしたせいで、オクサナはがりがりにやせて体力も落ちていた。最初の二週間は、いくつもの沼地をつっきって、いつ終わるとも知れないランニングをさせられた。みぞれに顔を打たれ、ぬるぬるする海岸特有の泥にブーツを吸いこまれながらのランニングは、まさに拷問だった。
 だが、決意の力がオクサナを進ませ続けた。ぬかるんだ泥の上で極寒の風雨にさらされてたとえ死んだとしても、ロシアの刑罰制度に引き戻されるよりはましだ。フランクは彼女が何者なのかも知らなかったし、気にしてもいなかった。彼の役目はきわめて単純、オクサナをしっかりと戦闘できる身体にすることだった。この訓練期間中、オクサナが暮らしたのは、本土と四百メートルの土手道でつながっている泥と砂利の島の、暖房のない組み立て式かまぼこ型兵舎だった。冷戦中には早期警報基地だったせいか、そこには大惨事を予言する陰鬱な使命の残滓がいまだにしみついているようだった。
 ここに来た最初の夜はあまりに寒くて眠れなかった。が、それ以降は激しい疲労に打ち負かされ、たった一枚の毛布にくるまっただけで、午後九時には死んだように眠りに落ちた。毎朝四時に、フランクが波型鉄板のドアを蹴り開け、その日の分の糧食―たいてい水の入ったプラスチック水筒と、加工肉と野菜の缶詰二個―を投げてよこした。前の日の訓練でまだ湿ったままのTシャツと戦闘ズボンとブーツを身につけ、それから二時間、ふたりは島の周回ランニング―ぬかるんだ灰色の泥地をつっきるか、氷のように冷たい波打ち際ぞいに走るか―を繰り返し、兵舎に戻って小さな固形燃料のストーブでお茶を淹れ、糧食の缶詰を温めた。日が昇るころにはふたたび外に出て、オクサナが疲労のあまりへどを吐くまで泥地を走った。
 午後には、夕闇が深まるなか、ふたりで接近戦をおこなった。フランクは長い年月をかけて、柔術やストリートファイト、その他のテクニックを組み合わせ、ひとつの訓練法に昇華させていた。即興の反応とスピードを重視し、膝まで水につかる海でいつ泥や砂利に足をすくわれるかわからない状態で対戦練習をすることもしばしばあった。オクサナの英語力が乏しいことを知っていて、身体で教えこんだのだ。父親からシステマ・スペツナズの基礎を習っていたから戦闘について多少は心得ていると思っていたが、フランクはオクサナの動きをすべて読んでいるかのように、殴りかかるのを無造作な動きでかわし、何度となく凍えるような海水に彼女を投げこんだ。
 オクサナは、この元SBS教官ほど誰かを憎いと思ったことはなかった。誰ひとりとして―ペルミの孤児院でも、ドブリャンカ拘置所でも―これほど徹底的に彼女を見下し、恥辱を味わわせた者はいなかった。憎悪はやがて沸き立つような怒りに変わった。彼女、オクサナ・ボリソーヴナ・ヴォロンツォヴァは、ほとんど誰にも理解できないルールに従って生きていた。このくそったれ英国野郎があたしを殺すつもりなら、こっちが打ち負かしてやる。
 最終週のある日の夕方、ふたりは満ち潮の波打ち際に立ち、たがいに向き合ってじりじりと円を描くようにまわっていた。フランクは刃渡り二十センチのガーバーナイフを持っていたが、オクサナは丸腰だ。最初にフランクが仕掛けた。いぶした刃をオクサナの顔の間近―風が感じられるほど近く―に繰り出した。オクサナは反射的に身をすくめてフランクのナイフを持った腕の下に沈み、同時にすばやく至近距離から脇腹にこぶしを打ちこんだ。
一瞬フランクの動きが止まり、ガーバーの刃がふたたび戻ってくる前に、オクサナはリーチの外に出ていた。ふたりは小刻みに動きながら間合いを測り、フランクは彼女の胸めがけてナイフを突き出した。頭より先に身体が反応した。とっさに半身にひねりながら彼の手首をつかみ、ねじりあげると同時に足を蹴って払った。フランクが両腕を振りまわしながら仰向けに波のなかに倒れた。オクサナは片足を振り上げ、ナイフを持った彼の手を砂利のなかに踏みつけた―「まず武器を制圧しろ、それから相手だ」そういつも父親に教えられていた。フランクが思わずガーバーナイフを放すと、彼の上に倒れこむようにして水中に押さえこんだ。彼にまたがって顎に手をかけてのけぞらせ、溺れかけ苦悶にゆがむ顔を見つめた。
 それはなかなか興味深い―魅力すら感じる―ひとときだったが、彼を殺したくはなかった。彼には生きて、彼女の勝利を認めてもらいたかった。だから浜に引きずり上げた。横ざまにころがって海水を吐き出したフランクが目を開けたときには、オクサナはガーバーナイフの切っ先を彼の喉に突きつけていた。彼女の目を見つめ、フランクは小さくうなずいて負けを認めた。
 一週間後、コンスタンティンが迎えにやってきた。リュックサックを片方の肩にひっかけ、土手道に通じる泥道に立って待っているオクサナの頭からつま先まで、彼は感心したように眺めた。「いい面構えになったな」オクサナの新たな自信に満ちた立ち姿と、潮風に焼けて
炎症を起こしている風貌を冷ややかに見つめ、言った。
「おい、こいつはくそイカれたサイコだぞ」フランクが言った。
「完璧な人間なんていやしないさ」コンスタンティンは言った。
 二日後、オクサナはドイツに飛び、ミッテンヴァルトにある山岳戦闘学校で三週間にわたる脱出・逃避訓練を受けた。彼女はNATO特殊部隊に所属させられ、さらにロシア内務省のテロリズム対策部隊からの出向という名目になっていた。二日目の夜、雪洞を掘って野営していたとき、寝袋のジッパーをそっとまさぐる指先が感じられた。闇のなか、無言の、だが怒り狂った戦いがはじまり、翌日、ふたりのNATO兵士がヘリコプターで山から下ろされた。ひとりは腕の腱を切断され、もうひとりは手のひらをナイフで貫かれていた。それ以降、オクサナにちょっかいを出す者はいなかった。
 ミッテンヴァルトでの訓練が終わるとすぐさま、ノースカロライナ州のフォートブラッグに飛び、米国陸軍訓練施設で拷問抵抗プログラムの上級コースを受けた。ここの訓練は、最大限のストレスと不安を誘発するように設計されており、丹念につくられた悪夢のようなものだった。到着するとすぐ、オクサナは男の警備員たちの手で裸にされ、まぶしい光で照らされた窓のない独房に歩いていかされた。壁の高いところに監視カメラがひとつあるだけで、ほかには何もなかった。果てしないように思える時間がすぎたが、与えられるのは水だけだった。トイレもなかったので、床で用を足さざるをえなかった。ほどなく独房はくさいにおいがたちこめ、空腹のあまり胃がよじれそうになった。眠りかけると、独房内にホワイトノイズが響いたり、合成音声が耳をつんざくような大音量で意味のない文句をくりかえしたりした。
 二日目の終わり―あるいは三日目だったかもしれない―には袋をかぶせられ、建物の別のところに連れていかれて、尋問を受けた。見えない尋問者たちが流暢なロシア語で、何時間も連続して責めたてた。尋問中は、情報と引き換えに食べ物が与えられ、苦痛と恥辱に満ちた屈服の姿勢を無理やりとらされた。極度の空腹と睡眠剝奪のうえに位置・方向感覚も奪われ、オクサナはほとんどトランス状態に入りこんだ―あらゆる感覚の境界がぼやけていた。だがそれでも、わずかに残った自意識の名残のようなものにしがみついていた。このつらい時間には必ず終わりがあることもわかっていた。いかに恐ろしい目に遭わされて自尊心を傷つけられようとも、ウラル山脈に隔離された刑務所の厳重に警備された区画で暮らすよりはましだ。訓練は終わったと正式に告げられたころには、オクサナはかなり皮肉な意味で、この苛酷な経験を楽しめるようになってきていた。
 そのあとも、さらなる訓練が続いた。ウクライナのキーウ南部でのキャンプであらゆる武器に精通するための訓練が一か月、それからロシアの狙撃手養成訓練校でさらに三か月。ここは、スペツナズのアルファ部隊とヴィンペル部隊が訓練しているモスクワ郊外の名高い施設ではなく、エカチェリンブルクに近いとんでもない僻地にある施設で、ある民間の警備会社が運営していて、いっさい何の質問をされることもなく受講することができる。ロシアに戻ってきた―コンスタンティンが用意したにせの身分証を携えてではあるが―と思うとオクサナは妙な気分になった。エカチェリンブルクは彼女が育った街から二百マイルも離れていなかった。
 そして、ほどなく彼女はこうした偽装にある種舞い上がるような喜びを覚えるようになってきた。「公式には、オクサナ・ヴォロンツォヴァは存在しない」コンスタンティンはそう教えてくれた。「ペルミ市立病院が発行した証明書では、彼女はドブリャンカ拘置所の独房で首を吊ったことになっている。地区の記録には、産業地区の共同墓地に公費で埋葬されたと記されている。そういうわけで、彼女を悼む者は誰もおらんし、探している者もない」
 セヴェルカ市街地狙撃手養成訓練校は人けのない街のまわりに建てられていた。ソビエト時代には、放射線被曝のさまざまな影響を研究する科学者たちが集まり栄えていたが、今はゴーストタウンになり果て、住んでいるのは等身大につくられたターゲット用のダミー人形だけだ。それらが板ガラス窓の向こう側や、錆びついた空っぽの車の運転席に、戦略的に配置されているうつろな街は、いかにも不気味な場所で、がらんどうの建物群のあいだを吹き抜ける風のうなり以外に何の音もしなかった。
 オクサナの基礎訓練は標準仕様のドラグノフ狙撃銃を使っておこなわれたが、ほどなくそれを卒業して消音狙撃銃VSSへと移った。超軽量で、サイレンサーと一体化しているため、市街戦用の理想的な武器となる。セヴェルカを出るまでに、オクサナはありとあらゆる状況を想定した作戦行動実習で何千発という実弾を撃った。そのため、スチロール樹脂製の容器に入ったVSSを持って狙撃地点に到着してから、銃を組み立てて照準を合わせ、風速やその他のベクトルを計算し、四百メートル以内の距離にいる対象の頭なり身体なりを正確に撃つ(「一撃必殺だ」というのが、指導教官の言葉だ)という作業を一分以内でこなせるようになっていた。
 自分自身がどんどん変わっていくのを感じ、オクサナはその結果に満足した。観察力、感知能力、反応スピード。すべてが桁外れに増強されていた。心理的には自分が不死身のように感じていたが、自分がまわりの人々とはちがうという意識も、いつも明確にあった。彼女はほかのみんなが感じるようなことをいっさい感じない。ほかの人々なら苦痛や恐怖を感じる局面でも、彼女は凍りついたように冷静だった。ほかの人々の情緒的反応―恐怖や不安を感じ、愛情や好意を必死に得ようとする―をまねすることを学んではいたが、そういう感情を心から経験したことはなかった。とはいえ、世間の注意を惹きたくなければ、ごくふつうの人間の仮面をかぶらなくてはならないことや、自分が人と大きくちがっているのを隠さなければならないことはちゃんとわかっていた。
 他人を操れることは、ごく幼いときから知っていた。この点においてセックスはきわめて有効で、オクサナは旺盛な欲望をかきたてる存在だった。行為そのものは大したものとは思えなかったが、それをしているときのぞくぞくする感じと精神的に支配できるという点には満足が得られた。セックスの相手には、高い地位や権威を持つ人々を好んで選んだ。彼女が征服・支配した相手には、男女を問わず、学校教師たちがいたし、父親と同僚だったスペツナズ隊員もひとり入っていた。さらにタタールスタン共和国の首都カザンの軍事教練学校出身の若い女性(大学対抗試合でオクサナと競い合った相手だ)などもいた。なかでももっとも強い満足感を得られたのは、大学の一回生のときにオクサナの精神状態の鑑定を依頼された心理セラピストだった。好かれたいとはつゆほども思わなかったが、欲情されることには深い満足感を覚えた。征服した相手の目に浮かぶ表情―最後の抵抗がついに溶け去るところ―を見れば、支配権が完全にこちらに移ったとわかるのだ。
 とはいえ、どんなに激しい興奮を覚えようと、服従させた瞬間に興味を失ってしまう。なりゆきは常に同じだった―心理セラピストのユリアナのときでさえも。オクサナとその神秘めいた雰囲気に屈服したことで、ユリアナは魅力を失った。そしてオクサナはひたすら先に進むのみ。人格面でも職業面でも自尊心をずたずたにされた古い女には振り向きもしなかった。
 狙撃手講習のあとは、ヴォルゴグラードで爆発物と毒物、ベルリンで監視技術について学び、ロンドンでは運転と錠前破りの上級講習、パリでは身分偽装とコミュニケーションとプログラミングの技術講習を受けた。チュソヴァヤ橋のたもとでコンスタンティンと会うまでロシアから出たことがなかったオクサナにとって、欧州を股にかけて飛びまわるのはめくるめく感覚だった。どの講習もそれぞれの国の言語で行われた。それはオクサナの言語能力が試されることでもあり、肉体だけでなく精神的にも疲れ果てることがしばしばだった。
 そのあいだじゅうずっと、少しも動じずに忍耐強く傍から見守っていたのが、コンスタンティンだった。彼はプロらしくオクサナとの距離を保っていたが、プレッシャーがあまりに強くなりすぎて、しばらくひとりになりたいとオクサナが冷静に告げたとき―五回ほどあった―にはやさしい態度を見せた。「一日休暇をとれ」あるときロンドンで、彼はこう言った。「市内を見てまわれ。それから、これから使う偽名を考えるように。オクサナ・ヴォロンツォヴァは死んだんだからな」
 十一月には、訓練はほぼ終わった。オクサナはパリ市内の流行最先端地区であるベルヴィルのそばのみすぼらしい一つ星ホテルに泊まり、パリ西部近郊にある都市開発地区ラ・デファンスの目立たないオフィスビルに日参して、そこでインド系の若者からステガノグラフィーというコンピュータ・ファイルに秘密の情報を隠して送る技術の秘訣を学んだ。そして最終日、コンスタンティンがあらわれてホテルの料金を支払い、セーヌ川左岸のヴォルテール通りにあるアパートにオクサナを連れていった。
 二階にある住居は、素朴な家具を最低限備えただけの質素な部屋だった。ここの住人は六十がらみの険悪な顔つきをしたとても小柄な婦人で、完全に黒ずくめの服を着たこの婦人を、コンスタンティンはファンティーヌさんだと紹介した。
 ファンティーヌはオクサナをじろじろと見つめた。そして表情はいっさい変えずに、室内を歩きまわるようにと言った。色あせたTシャツとジーンズとスウェットジャケットという姿を気恥ずかしく思いながら、オクサナは言われたとおりにした。ファンティーヌはしばらくそれを観察し、コンスタンティンのほうを向いて肩をすくめた。
 そして、オクサナの変身の最終仕上げの段階がはじまった。オクサナは通り二本向こうの四つ星ホテルに移り、毎朝、例のアパートの二階の部屋でファンティーヌと朝食を共にした。毎朝九時に、車がふたりを迎えにきた。初日に、ふたりはオスマン通りのギャラリーラファイエット・パリ本店に行った。ファンティーヌは百貨店じゅうの売り場をまわり、次々と試着を命じ―普段着用、カジュアル系、盛装用―オクサナが気に入ろうが入るまいが関係なく、それらを買った。オクサナが目を引かれた、身体に沿うタイトで一見華やかな服には、ファンティーヌは目もくれなかった。
「わたしがあなたに教えるのはパリっ子スタイルよ、あなた。モスクワの街娼みたいな着こなしはもう身についてるでしょ」
 夕方、車にはショッピングバッグがうずたかく積まれ、オクサナはこの情け容赦のない鑑識眼の持ち主である導師に同伴することが楽しいと思えてきた。それから一週間ほど、ふたりは靴の店や高級ブティック、オートクチュールやプレタポルテのファッションショーをまわり、サンジェルマン・デプレにある老舗百貨店や、パリ市立ガリエラ美術館・モード&コスチューム博物館を訪ねた。どこに行っても、ファンティーヌは手厳しいコメントを繰り出した。これはシックでクレバーでエレガント。あっちはどうにもダサい、趣味が悪い、救いがたいほどヒドい。ある日の午後、ファンティーヌはオクサナをヴィクトワール広場にある美容室に連れていき、オクサナが言うことにはいっさい耳を貸さずに自分の指示したとおりのことをするようにと美容師に命じた。終わると、ファンティーヌはオクサナを鏡の前に立たせた。オクサナは無造作な感じにカットされたショートヘアを片手でかきあげた。ファンティーヌが自分のために選んだこの風貌が気に入った。デザイナーズブランドのライダーズジャケット、ボーダーTシャツ、ローライズのジーンズにアンクルブーツ。どう見ても……ボーイッシュなパリっ子だった。
 その日の夕暮れ、ふたりはフォーブール・サントノレ通りにある香水のブティックを訪れた。「選びなさい」ファンティーヌは言った。「でもよくよく慎重にね」オクサナは十分ほどかけて上品な店内をゆっくりと見てまわり、ガラスの商品展示キャビネットの前で足を止めた。店員はしばらくオクサナを見守ったあと、「よろしいでしょうか、お客様?」と静かに言い、ほっそりした小さなガラス瓶を差し出してきた。瓶の首には真紅のリボンが巻いてある。オクサナは慎重に、琥珀色の高価な液体を手首につけた。春の夜明けのようなさわやかな香りが立ち昇ったが、ベースノートには何か底の知れない深みがあり、それが彼女の内側の奥深いところにあるものと響きあった。
「その香水の名前は〈ヴィラネル〉です」店員が言った。「ルイ十五世の公妾だったデュ・バリー夫人が大好きだった香りです。一七九三年に夫人がギロチン処刑されたあと、香水製造業者が赤いリボンをつけるようになったんです」
「それじゃ気をつけなきゃね」オクサナは言った。
 二日後、コンスタンティンがホテルに迎えにきたときに、オクサナは言った。「あたしの偽名だけど。決めたよ」

 パレルモ、ヴェルディ広場。敷石にヒールの音をかすかに響かせながら広場をつっきったヴィラネルは、シチリア島で、いや、実質的にイタリアで最大の歌劇場の堂々たる威容を見上げた。広場に立ち並ぶヤシの木の葉が暖かな微風にそよぐ音がかすかに聞こえる。大きな正面入り口の階段の両側を、ブロンズのライオン像がかためている。ヴィラネルはシルクのヴァレンティノのイヴニングドレスを着て、肘の上まであるフラテッリ・オルシーニの観劇用長手袋をつけていた。ドレスの色は赤だが、ほとんど黒に見える暗い色合いだ。かなり大きめのフェンディのショルダーバッグの細いチェーンが肩にかかっている。夕暮れの光に照らされたヴィラネルの顔は青白く、湾曲した長いヘアクリップが髪をアップにまとめていた。鏡張りのエントランス・ホールに群がるヴェルサーチェやドルチェ&ガッバーナに身をかためた社交界の名士たる紳士淑女たちに比べれば多少華やかさに欠けるとはいえ、ヴィラネルもじゅうぶんゴージャスに見えた。マッシモ劇場の公演初日はいつも祝祭のようだ。そして今夜の演目はプッチーニの『トスカ』―きわめて有名なオペラだ。主役が地元のソプラノ歌手、フランカ・ファルファーリャだという点でも、この初日は見逃せなかった。
 ヴィラネルはプログラムを買い、エントランス・ホールをつっきってロビーに入っていった。ロビーは早くも人で埋まっていた。静かな会話の声や、グラスがチリンと鳴るかすかな音に混じって、高価な香水の芳香が漂う。華やかな壁掛け照明が、やわらかなレモン色の光で大理石の装飾に色味をつけている。バーでミネラルウォーターを頼んだとき、やせた黒髪の人物にじっと見られていることに気づいた。
「もうちょっと……おもしろいものをおごろうか?」飲み物代を支払うヴィラネルに、男は声をかけた。「シャンパンでも?」
 ヴィラネルは微笑んだ。男は見たところ、三十五歳プラスマイナス一、二歳。気難しそうなイケメン。シルバーグレーのシャツには非の打ちどころがなく、軽量のブレザーはブリオーニのもののようだ。イタリア語のざらつくような響きはシチリアなまりのもので、目つきには威嚇するようなぎらつきがあった。
「いいえ、けっこうよ」オクサナは言った。「でもありがとう」
「当てさせてくれ。あんたはイタリア語をしゃべってるが、見るからにイタリア人じゃない。フランス人か?」
「まあね。いろいろと複雑なのよ」
「で、プッチーニのオペラは好きなのか?」
「もちろん」オクサナはささやく。「でもいちばん好きなのは『ラ・ボエーム』よ」
「そりゃあんたがフランス人だからだ」男は手を差し出した。「レオルーカ・メッシーナだ」
「シルヴィアーヌ・モレルよ」
「で、どうしてパレルモに来てるんだ、マドモワゼル・モレル?」
 オクサナはこの会話を終わらせたかった。離れようか。でもこいつはついてくるだろう。そうなればいっそうまずいことになる。「友だちといっしょに来てるの」
「誰だ?」
「あなたの知らない人よ、残念ながら」
「おれが誰を知ってるか聞いたら、きっと驚くぜ。それにいいか、ここにいる全員がおれを知ってるぞ」
 ヴィラネルは不意に横を向き、明るい笑みを顔に浮かべると、エントランスに向かって手を振った。「失礼するわね、セニョール・メッシーナ。友だちが来たわ」これでは説得力がないか。人込みをかきわけてじわじわと進みながら、ヴィラネルはちょっと反省した。だが、あのレオルーカ・メッシーナにはどことなく、暴力に長く慣れ親しんできた感じがまとわりついていた。自分の顔はぜひとも忘れてもらいたいと思わずにはいられなかった。
 グレコは来るだろうか。ヴィラネルは人込みのなかを漠然と歩きまわりながら、すれちがう人々の顔をチェックした。当地にいるコンスタンティンの協力者が劇場の事務職員たちに慎重に賄賂を贈って聞き出した話によると、かのマフィアのボスは大事な初日の夜はほとんどやってくるということだった。いつも開演ぎりぎりにやってきて、同じボックス席にひとりきりで座り、ボディガードたちはすぐ外側で待っている。が、今夜本当に来るかどうかは、いらだたしいことに、はっきりと知ることは不可能だった。とはいえ、何といっても彼のお気に入りのファルファーリャが主役なのだ。やってくる確率は高い。
 コンスタンティンの配下の者たちは、けっこうな額を払って、グレコのお気に入りの桟敷ボックスに隣するボックスを確保していた。それは最前列のボックスで、舞台にほぼ隣接する位置にあった。ヴィラネルは真紅のフラシ天張りのボックスに入っていったが、幕が開くまであと十分というときになっても、左隣のボックスには誰もいなかった。ボックス席というのは、私的な場所であると同時に公共の場所でもある。金色の椅子に腰かけ、胸の高さにある緋色の布張りの手すりを前にして、ヴィラネルは観客席に座る全員を見ることができると同時に、見られてもいる。仕切りごしに身を乗り出せば、両側のボックスの正面をのぞきこむこともできる。とはいえ、客席の照明が消えると、ボックス席はすべて内部が見えなくなり、秘密の世界と化す。
 誰にも見られることのない秘密の世界の暗闇で、ヴィラネルはショルダーバッグを肩から下ろし、ゲムテックのサイレンサーをつけたルガーの軽量オートマティック拳銃を取り出し、〇・二二インチの低速弾の弾倉を装填した。その拳銃をバッグに戻し、床に置く。
 ヴィラネルとして生まれ変わってから九か月のあいだに、彼女はふたりの男を殺した。どちらの案件もコンスタンティンからの一語だけのメールからはじまり、続いて詳細な背景を知らせる資料―フィルムクリップ、くわしい身上書、監視記録、行動予定等々―が知らない情報源から送られてくる。どちらも計画期間は四週間ほどあり、そのあいだに武器を調達し、期待できる後方支援についての情報をもらい、その案件にふさわしい身分の提供を受ける。
 最初のターゲット、ヤーゴス・ヴラチョスは、おそらくは〝汚い爆弾〞をアテネで爆発させるという目的で、東欧の放射性コバルト60を買いつけていた。彼がピレウスの港で車を乗り替えているときに、ヴィラネルはロシア製狙撃銃VSSを使い、三百二十五メートルの距離からその胸にSP5弾を一発ぶちこんだ。その一瞬まで、彼女は倉庫の屋根に張った防水シートの下にひと晩じゅう隠れていた。安全なホテルの部屋に戻ってからこの一部始終を思い返し、ヴィラネルは強烈な、心臓がどくどくとはずむほどの高揚を感じた。抑制された銃声のピシッという乾いた音、遠くの衝撃音、スコープ内で崩れ落ちる姿。
 二番目のターゲット、ドラガン・ホーヴァットはバルカンの政治家で、人身売買ネットワークを運営していた。彼が犯した過ちは、仕事であつかっている商品を家に持ち帰ったことだった。それはジョージアの首都トビリシ出身の、ヘロインに耽溺した十七歳のきれいな少女だった。どういうわけかホーヴァットはこの少女に夢中になり、ヨーロッパの各国首都をめぐる豪勢なショッピングツアーに連れ出した。このカップルが週末を過ごすお気に入りの都市がロンドンで、ある晩遅い時間に、ベイズウォーターの横丁で、ヴィラネルはでれでれと笑みを浮かべているホーヴァットにぶつかった。彼は、太腿の大腿動脈を切断されたことに、すぐには気づかなかった。歩道に倒れて失血死する彼を、ジョージア人の若い愛人はヘロインでラリッた目でずっと見ていた―その日の午後、ナイツブリッジで彼が買ってやった金のブレスレットをぼんやりといじくりながら。
 この二件の殺しのあいだ、ヴィラネルはパリのアパートで暮らしていた。市街を探索し、この街が差し出してくれるさまざまな愉しみをつまみ食いし、次々と情事を楽しんだ。こうした情事は常に同じ行程をたどった。こちらから性急に追いかけ、二日ほど昼夜分かたずに貪りあい、それから唐突にすべての接触を断つ。彼女はただ、相手の前から消え失せるのだ―入りこんできたときと同じように、すばやく、煙に巻くように。
 ヴィラネルは毎朝ブローニュの森でランニングし、モンパルナスの柔術の道場で稽古をし、サン・クルーの高級射撃クラブで射撃の練習をした。そのあいだ、見えない手がアパートの家賃を払い、デイトレードをおこなってくれ、その儲けはソシエテ・ジェネラル銀行の当座預金口座に振り込まれた。「好きなように使うといい」コンスタンティンは言った。「だが絶対に目をつけられないようにしろ。楽しく暮らすのはいいが、やりすぎるな。絶対に痕跡を残すな」
 ヴィラネルはそのとおりにした。表面上いっさい波風を立てなかった。次々と居場所を変えるプロたちの色のない軍隊の一員となったのだ。みな、それぞれ独立して仕事をしながらも、互いに目を配っている。自分が執行する死刑をいったいどういう権威筋が決定するのか、ヴィラネルは知らなかったが、コンスタンティンには訊かなかった。答えてもらえるとは思えなかったし、実を言えば、本気で知りたいとも思わなかったからだ。ヴィラネルにとって大事なのは、自分が選ばれたということ。つまり、ずっと抱いていた自分はほかの人々とはちがっているという確信をわかってくれた全能の組織に道具として選ばれたということだ。彼らはヴィラネルの才能を認め、彼女を選び出して、世界の最下層からもっとも高い層へと引き上げてくれ、そこが彼女の居場所となっている。ターゲットを襲う猛獣、進化の道具、世間の道徳など適用されないエリートたちの一員、それがヴィラネルだ。そう実感することで、彼女の内部に大きな黒い薔薇の花のようなものが開き、彼女のあちこちにあいているうつろな穴がすべて満たされていた。

 ゆっくりと、マッシモ劇場の客席が埋まっていく。ゆったりと椅子の背にもたれかかってプログラムを読むヴィラネルの顔は、ボックス席の仕切りの陰に隠されている。開演時間がきて照明が暗く落とされ、客席のざわめきが引いていく。指揮者がお辞儀をして好意的な拍手を浴びているとき、隣のボックスに静かに人が座る気配がした。ヴィラネルはそちらを向きはしなかった。が、第一幕がはじまったとき、熱心に舞台を見ようとするかのように身を乗り出した。
 一分、また一分と時が過ぎる。時間の歩みは這うようにのろかった。プッチーニの音楽がヴィラネルを包みこんだが、感動は覚えない。彼女の意識はすべて、左側のボックスにいる見えざる人物に集中していた。あえてそちらを見ないようにしていたが、男の存在が有害でこの上なく危険な脈動のように感じられた。ときおりうなじにひやりと冷たいものを感じ、男が自分を見つめていることが知れた。ついに『神の賛歌』の調べが消えて第一幕が終わり、緋色と金色の幕が下りた。
 幕間に入って照明がつき、客席の話し声が高まってきても、ヴィラネルはオペラに魅入られたかのように身動きもせず座っていた。それから、いっさい横に目を向けたりせずに立ち上がり、ボックスを出た。通路のつきあたりに立ち、退屈そうだが警戒した目つきをしているボディガードふたりの姿を目の端でとらえる。
 悠然とした足取りでロビーに入っていき、バーでミネラルウォーターを注文する。グラスを手に持つが、口はつけない。向こう端からレオルーカ・メッシーナがこちらに向かってくるのが見えた。見ていないふりをして、ヴィラネルは人込みにまぎれこみ、エントランス・ホールに出た。外に出る。劇場の階段からはまだ昼間の熱が消え去ってはいなかった。海上の空は薔薇色で、頭上の空は暗い紫色をしている。六人の若者が通りざまに口笛を吹き、地元の方言で称賛のコメントを投げてきた。
 第二幕がはじまる直前に、ヴィラネルはボックスに戻り、席に着いた。今回も左側のグレコにちらとも目を向けないように気をつけた。食い入るようにじっと舞台を見つめ続ける。この歌曲は実にドラマティックな話を描いている。歌手トスカは画家のカヴァラドッシと愛しあっているが、カヴァラドッシは脱獄した政治囚の逃亡を助けたことで罪に問われる。警視総監スカルピアに逮捕されたカヴァラドッシは死刑を宣告される。だが、スカルピアはトスカにある取り引きをもちかけた。トスカが彼に身体を与えれば、カヴァラドッシを釈放するという取り引きを。トスカはそれに同意するが、いざスカルピアが近づいてくると、隠し持っていたナイフで彼を殺す。
 幕が下りた。ヴィラネルは拍手を終えるとグレコのほうを向いてにっこりと笑いかけた。まるで、はじめて彼を見るというように。ほどなく、ボックスのドアがノックされた。ボディガードのひとり、がっしりした男が、無作法ではない口調と態度で、もしよろしければドン・サルヴァトーレといっしょにワインを一杯いかがだろうかとたずねた。ヴィラネルはちょっとのあいだためらってみせ、それから礼儀正しくうなずいた。通路に出ていくと、ボディガードその二が彼女を頭のてっぺんからつま先まで眺めまわした。バッグはボックスに置いてきたので手には何も持っておらず、ヴァレンティノのドレスはアスリートのような筋肉のついた細身の身体にぴったりと沿っていた。ボディガードふたりはわかったような顔で目を見かわした。これまで何人もの女をボスのもとに運んでいることは明白だった。がっしりした男がボックスのドアを指し示した。「どうぞ、お嬢さん……」
 ヴィラネルが入っていくと、グレコは立ち上がった。いかにも高価そうなリネンのスーツを着た、中肉中背の男だった。だが、死をはらんだ静けさを身にまとい、顔に笑みを浮かべていても目は笑っていなかった。「不躾を許していただきたい」彼は言った。「だが、あなたの鑑賞のしかたに目を留めずにはいられませんでした。同じオペラ愛好家として、フラッパトを一杯いかがかと思いましてね。わたしの自家農園のブドウでつくったものでね。品質は保証しますよ」
 ヴィラネルはお礼を述べ、よく冷えたワインを試すようにひと口飲んで、自己紹介をした―シルヴィアーヌ・モレルです。
「サルヴァトーレ・グレコです」彼の声にはようすをうかがうような調子があったが、ヴィラネルの眼差しはちらとも揺るがなかった。その名前が示す人物について彼女はまったく何も知らないと、彼にはっきりと知れたはずだ。ヴィラネルはワインを褒め、マッシモ劇場を訪れたのはこれがはじめてだと告げた。
「で、ファルファーリャをどう思います?」
「すばらしいわ。演技もいいし、ソプラノが抜群にすてき」
「彼女を気に入っていただいてうれしいな。わたしは幸運なことに、彼女のトレーニングを、ささやかながらちょっと手伝ってるんですよ」
「あなたの眼識の確かさを拝見できてうれしいです」
「イル・バチオ・ディ・トスカ」
「すみません、何て?」
「ケスト・エ・イル・バチオ・ディ・トスカ。『これがトスカのキスよ!』トスカがスカルピアを刺すときに言う言葉です」
「ああ、そうでした! すみません、わたしのイタリア語は……」
「とてもお上手ですよ、シニョリーナ・モレル」またもや、彼は口元にだけ氷のような笑みを浮かべた。
 ヴィラネルは謙遜するように首をかしげた。「そうは思えませんわ、シニョール・グレコ」頭の一部では会話を操り、別の一部では実行する手段と方法、タイミング、逃走ルート、脱出計画を計算していた。現在、ターゲットと一対一で向き合っているが、こちらはひとりきりだ。だがそれは、コンスタンティンがしょっちゅう明言しているように、いつものことだ。他人を関わらせるのは、全体像をさとられないようなごく瑣末なこと以外、絶対にしてはならない。援護も陽動作戦も、表だっての助けも望めない。もしつかまったら、それで終わりだ。彼女をこっそり監獄から出してくれるスマートな手引きもなければ、外で待っていて空港に送ってくれる車もない。
 ふたりは話を続けた。ヴィラネルにとって、言語は流動的だ。たいていの時間はフランス語でものを考えているが、目が覚めてロシア語で夢を見ていたと気づくこともよくある。ほとんど眠りかけているときに、耳のなかで血流がわんわん鳴り響き、止めようのない潮流となっていろんな言語でわめきながら押し寄せてくることが、たびたびあった。そういうときには、パリのアパートでひとりきり、何時間もネットサーフィンをして―通常は英語で―感覚を麻痺させることにしていた。そして今は、頭のなかではシチリアなまりのイタリア語でシナリオを演じている。わざわざその言語を選んだわけではないが、頭のなかでそれが鳴り響いているのだ。自分のなかに、今もオクサナ・ヴォロンツォヴァのままの部分はあるのだろうか? 彼女は今もまだ存在しているのだろうか―来る夜も来る夜も孤児院で、おねしょで濡れたシーツに横たわり、復讐の計画を夢想していたあの幼い女の子は? それともヴィラネルがずっといただけなのだろうか、進化によって選ばれた道具として?
 グレコは彼女をほしがっている。育ちがよくて感受性が強く、大きな目でじっと彼を見つめる若いパリジェンヌをヴィラネルが演じるにつれ、彼の欲望がどんどん大きくふくらんでいく。それがわかった。グレコはワニのようだ―じりじりと水際に近寄ってくるガゼルを浅瀬に隠れて待ち受けている。いつもどういう手順を踏むのだろう? ヴィラネルは考えた。どこかグレコの馴染みの店でディナーをとるのだろうか―慇懃なウェイターたちをはべらせ、ボディガードふたりは近くのテーブルで待ち受けるのだろう。そのあと、運転手つきの車でどこかの街中のつつましいアパートにでも?
「初日の夜は必ず、このボックスはわたしのために取っておかれてるんだ」グレコは言った。
「グレコ家はハプスブルグ朝よりも前から、パレルモの貴族だったんだよ」
「そうでしたら、ここに来られたわたしは運がよかったのね」
「最後の幕までいるんだろう?」
「喜んで」ヴィラネルがささやいたとき、オーケストラの演奏がはじまった。
 第三幕が繰り広げられているあいだ、ヴィラネルはまたもや熱心に舞台を見つめながら、計画していた瞬間が来るのを待ち受けた。それは、偉大なる愛のデュエット『アマロ・ソル・ペル・テ』と共にやってきた。最後の響きが消え去ると、観客は割れんばかりの拍手をし、「ブラヴィー!」とか「ブラヴァー、フランカ!」と叫び声が劇場いっぱいに響きわたった。ヴィラネルもほかの人々といっしょに拍手をし、目をきらめかせながらグレコのほうを向いた。グレコと目が合う。まるで衝動に駆られたというように、彼はヴィラネルの手を握り、そこにキスした。彼女はしばらくのあいだグレコの目を見つめていた。それからもう一方の手を上げ、髪を留めてある長い湾曲したクリップをはずした。長く黒い髪が肩までふわりと落ちた。手が青白い弧を描いて振り下ろされ、クリップがグレコの左目に深々と突き刺さった。
 驚愕と痛みのあまり、彼の顔から表情が消えた。ヴィラネルは小さいプランジャーを押しこんで、大型動物用の麻酔剤、エトルフィンを致死量、前頭葉に注ぎ入れ、即座に麻痺させた。グレコを床に横たえ、あたりを見まわす。ヴィラネルのボックスには誰もおらず、その向こうのボックスでは老夫婦がオペラグラスで舞台に見入っている。劇場内のすべての目がファルファーリャとカヴァラドッシ役のテノール歌手に向けられていた。ふたりの歌手は次々と波になって押し寄せる拍手を浴びながら、身動きもせずに立っている。ヴィラネルは仕切りの向こう側に手をのばしてショルダーバッグを回収し、暗がりに引っ込んでルガーを取り出した。消音された二発の銃声はほかの人々には聞かれず、グレコのリネンのジャケットごしに撃ちこまれた〇・二二インチの低速弾は布にほつれひとつ残さなかった。
 拍手の波が引いていくと、ヴィラネルは銃を背後に隠してボックスのドアを開け、心配そうな顔をしてボディガードふたりを手招きした。ふたりは入ってきて、雇い主のかたわらに膝をついた。そして二発がほとんど間を置かずに続き、ふたりともカーペットが敷かれた床に倒れた。ふたりの首のうしろにあいた穴からしばらく血が噴き出していたが、どちらも脳幹を断ち切られてすでに死んでいる。たっぷり何秒間か、ヴィラネルは殺しの強烈さと、ほとんど痛みに近い刺し貫くような満足感にどっぷりと浸った。いつもセックスに期待するのだが、けっしてもたらされることのない満足感に。一瞬、ヴィラネルはあえぎながら、ヴァレンティノのドレスに包まれたわが身をかたく抱きしめた。それからルガーをバッグにすべりこませ、肩をそびやかして胸を張ると、ボックスを出た。
「もうお帰りになるんじゃないだろうな、シニョリーナ・モレル?」
 心臓が跳び上がった。狭い通路をヒョウのように不吉で優雅な身ごなしで近づいてくるのは、レオルーカ・メッシーナだ。
「残念ながら、そうよ」
「そりゃ残念だ。だが、おれの伯父とはどういう知り合いで?」
 ヴィラネルは彼を凝視した。
「ドン・サルヴァトーレだよ。たった今、伯父のボックスから出てきただろ」
「さっき知り合ったの。それじゃ、失礼するわね、シニョール・メッシーナ……」
 彼はちょっとのあいだヴィラネルを見つめ、それからきっぱりした足取りで彼女のわきを通りすぎると、グレコのボックスのドアを開けた。一瞬後に出てきたとき、彼は銃を手にしていた。ベレッタ・ストーム九ミリか、とヴィラネルは頭のどこかで判断しながら、ルガーを彼の頭に突きつけた。
 少しのあいだ、どちらもまったく動かずに立っていた。それから、彼は目をすがめてうなずき、ベレッタを下ろした。「そいつをしまえ」
 ヴィラネルは動かなかった。光ファイバーを用いた照星を彼の鼻のつけ根に向ける。シチリア人の三つ目の脳幹を切断するつもりだった。
「おいおい、じじいが死んで喜んでるんだぜ、おれは。わかるな? 今にも幕が下りてこの場所には人があふれ出る。ここから出たけりゃその銃をしまっておれについてこい」
 本能がヴィラネルに従えと命じた。ふたりは足早に通路の突き当たりのドアを抜け、短い階段を下りて、一階正面の特別席を取り巻く真紅の布張りの通路に入っていった。「おれの手を取れ」命じられたとおりに、ヴィラネルはそうした。制服を着た案内係がこちらにやってくる。メッシーナが朗らかに挨拶し、案内係はにやりとした。「お早い撤収ですか、シニョール?」
「まあ、そんなところだ」
 通路の突き当たりはグレコのボックスの真下で、両側の壁と同じ真紅の錦織りが張られたドアがある。ドアを開け、メッシーナはヴィラネルを小さなホールに引き入れた。毛布のようなカーテンを彼が両側に引き開けると、そこは舞台裏だった。両袖の深い薄闇のなか、オーケストラ・ピットから場内放送システムで流される大音響の音楽にふたりは包まれた。十九世紀の衣裳を着た男女が暗がりのなかを静かに動き、裏方たちが滞りない進行のために動きまわっている。メッシーナはヴィラネルの肩に腕をまわし、急ぎ足で衣裳ラックやつっかいで立てられている背景画のうしろを通り抜けて、円形ホリゾントとレンガの後ろ壁とのあいだの狭苦しいスペースに連れていった。舞台裏をつっきっているとき、マスケット銃の一斉射撃の音が聞こえた。カヴァラドッシが処刑されたのだ。
 さらに通路をたどり、消火器や非常事態時の避難指示図が掛かっている色あせた壁の前を抜け、ついに楽屋口のドアからヴェルディ広場に足を踏み出した。車が行き交う音が耳に入り、頭上には暗い紫色の空が広がっていた。五十メートルほど離れた、ヴォルトゥルノ通りの保護柱のところに、シルバーと黒のツートンのMVアグスタのバイクが立っていた。ヴィラネルはメッシーナのうしろにまたがり、排気音の低いうなりと共に、夜のなかにすべり出た。
 数分後、最初のパトカーのサイレンが聞こえてきた。メッシーナはわき道をくねくねとたどりながら東を目指した。MVアグスタは急角度で角を曲がったりカーブをまわったりする動きに敏捷に反応した。ときおり、港の明かりや黒いインクのような海面のきらめきが左側に垣間見えた。バイクと行き合う人々はちらりとふたり―獰猛な狼めいた風貌の男と緋色のイヴニングドレスの女―に目を向ける。だが、ここはパレルモだ。しげしげと見つめるような者はいない。街路は細く、頭上には洗濯物が吊り渡され、開いた窓から家庭の食卓のにおいと物音が漏れてくる。やがて、つぶれた映画館と、バロック様式の教会がある暗い広場に出た。
 メッシーナはバイクを停め、ヴィラネルを連れて教会のわきの路地に入っていき、ゲートの鍵をはずした。そこは壁に囲まれた墓地、死者の都市だった。代々伝わる墓石や霊廟が黒々と何列にも並び、夜の闇の奥に続いている。「あんたの弾を取り出したあと、サルヴァトーレはここに葬られる」メッシーナは言った。「そのあと遅かれ早かれ、おれもここに埋められるだろう」
「彼が死んだのを見てうれしいって言ったでしょ」
「あんたのおかげで、おれがこの手でやつを殺らずにすんだからな。やつはけだものだった。どうにも制御のしようがなかった」
「あなたが後釜にすわるの?」
 メッシーナは肩をすくめた。「誰かがすわるさ」
「よくあることって感じ?」
「まあ、そんなようなものだ。だが、あんたは? 誰に雇われてる?」
「そんなことが問題?」
「ああ、あんたが次におれを狙いにくるようならな」ショルダー・ホルスターからずんぐりした小型のベレッタを抜く。「今あんたを殺しとくべきかもな」
「どうぞやってみるといいわ」ヴィラネルはルガーを抜いた。
 しばらくのあいだ、ふたりはにらみあった。それから、ヴィラネルは銃を構えたまま彼のほうに歩いていき、彼のベルトに手をかけた。「休戦する?」
 セックスは短く激しかった。そのあいだずっと、ヴィラネルはルガーを手にしていた。終わったあと、銃を持った手を彼の肩に置いて身体を支えながら、彼のシャツの裾で身をぬぐった。
「で、どうする?」メッシーナは敵ながらあっぱれという目で彼女をじっくりと見た。薄暗いなかで、彼女の上唇のかすかなひきつれは、情事の前に想像したようなセクシーさではなく、肉食獣の冷酷さを彼女に加えていることに気づく。
「行っていいわ」
「また会えるか?」
「そうならないことを祈りなさい」
 しばらくのあいだ、メッシーナは彼女を見つめ、それから歩み去った。MVアグスタのエンジンがうなりをあげ、夜闇の奥に遠ざかっていく。ヴィラネルは墓石が並ぶ坂を下っていき、柱のついた霊廟の前の小さな空き地に目を留めた。フェンディのショルダーバッグから、ブリケのライターとくしゃくしゃに丸めたブルーのコットンのワンピース、極薄のサンダル一足とランジェリー生地のマネーベルトを取り出す。マネーベルトには現金で五百ユーロと航空便のチケット、パスポートとクレジットカードがおさまっている。その名義はイリーナ・スコリク、ウクライナ生まれでフランス籍の女だ。

 ヴィラネルは手早く着替え、ヴァレンティノのドレスとシルヴィアーヌ・モレル関連の書類すべてと、今までつけていた緑色のコンタクトレンズとブルネットのウィッグを積み上げた。炎は短いあいだよく燃えた。何ひとつ残らなくなると、イトスギの枝を使ってその灰を雑草のなかに掃き寄せた。
 さらに坂を下ると、錆びついた出口ゲートがあり、そこから狭い路地に下っていく石段があった。路地は人通りの多い広い道に続いており、そこを通って西の中心市街地に向かった。二十分後、探していたものが見つかった。レストランの裏にある車輪つきの大型ゴミ容器。厨房の生ゴミがあふれている。観劇用手袋をはめながら、ヴィラネルはあたりを見まわして、誰にも見られていないことを確認し、両手をなかにつっこみ、ゴミ袋を六つほどひっぱりだした。そのうちのひとつをほどき、悪臭を放つハマグリの殻や魚の頭やコーヒーかすのなかにフェンディのショルダーバッグとルガーを押しこんだ。ゴミ袋を容器のなかに戻し、その上にあとの袋を積み上げる。最後に手袋がゴミのなかに消えた。作業にかかったのは三十秒足らず。それから悠々と、ヴィラネルは西に向かって歩き続けた。

 翌日の午前十一時、イタリア国家警察のパオロ・ヴェラ捜査官はオリヴェラ広場にあるカフェのバーカウンターで同僚とコーヒーを飲んでいた。長い午前だった。それまでは夜明けからずっと、マッシモ劇場の正面入り口の立ち入り禁止線に張りついていた。今や犯罪現場となった大劇場に群がる人々は、おおむね敬意を払って距離を保っていた。公式発表はいっさいなされていなかったが、パレルモ市民はみな、ドン・サルヴァトーレ・グレコが暗殺されたことを知っているようだ。いろんな憶測が飛び交っていたが、共通しているのは身内の仕業だろうという見解だ。暗殺者は女性だといううわさもあったが、うわさはうわさでしかない。
「お、見ろよ、あれ」ヴェラは同僚にささやいた。グレコ殺しについてあれこれ考えていたのが、瞬時に消え去っていた。同僚は彼の視線を追って、カフェの外、人でにぎわう通りに目を向ける。ブルーのサンドレスを着た若い女性―見るからに観光客だ―が立ち止まって、ハトの群れがいっせいに舞い上がるのを見ていた。驚いたように口を開け、グレーの目が輝いている。無造作にカットされたショートヘアを朝の光が輝かせていた。
「ありゃ令嬢か、それとも娼婦か?」ヴェラの同僚が言った。
「マドンナだな、疑う余地なし」
「それならおまえにゃ高嶺の花だよ、パオロ」
 ヴェラはにんまりと笑った。しばし、まばゆく陽のあたる通りで時間が静止した。それから、ハトが広場の上を旋回し、若い女性もふたたび歩きはじめた。長い手足を振り、雑踏のなかに消えていった。


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