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【試し読み】井上荒野さん『犬の名前』

■著者紹介

井上 荒野(いのうえ・あれの)
1961年東京生まれ。成蹊大学文学部卒。1989年「わたしのヌレエフ」でフェミナ賞、2004年『潤一』で島清恋愛文学賞、2008年『切羽へ』で直木賞、2011年『そこへ行くな』で中央公論文芸賞、2016年『赤へ』で柴田錬三郎賞、2018年『その話は今日はやめておきましょう』で織田作之助賞を受賞。他の作品に『もう切るわ』『ひどい感じ 父・井上光晴』『夜を着る』『リストランテ アモーレ』『あちらにいる鬼』『あたしたち、海へ』『そこにはいない男たちについて』『百合中毒』『生皮 あるセクシャルハラスメントの光景』『小説家の一日』『僕の女を探しているんだ』などがある。

■あらすじ

痔かと疑い、診察を受けたところ、思いがけず進行がんと告げられた野副圭介とその妻・萌子。圭介は死を覚悟することの恐怖はあるものの、十三歳下の妻より先に逝くことに安堵もしている。一方、萌子はひとり残されることの不安からあるサイトを目にした──。
パートナーへの愛情と、同程度の自己愛が、あらぬ想像を引き起こし、隠しているわけではない「秘密」も重篤で確固たるものになっていく。
危機に直面し、行き違ってしまう夫婦と、その内面を双方の視点から描く。

■本文

 野副のぞえ圭介けいすけ

 最初は小さな違和感だった。尻の周辺の、なんとなく熱っぽい感じ。これが「痔」というやつだろうか、だが還暦を過ぎて仕事を縮小し、座り仕事が以前ほどではなくなった今になって、そんなものになるかなあと思っていた。痛みはなかったので様子を見ていたのだが、そのうち手で触ってもわかるくらい腫れぼったくなってきて、こりゃあ何か黴菌でも入ったのかもしれないと、病院に行ったのだった。
 ふたつ先の駅に近い総合病院の外科に、妻の萌子もえこの旧知である桜井さくらいがいるから、彼の診療日にそこへ行った。最初は世間話など交えて、どうということはない感じだった。触診―なかなか衝撃的な体験だったが、その感触はもはやあっという間に消し飛んでしまった―で痔ではないことがわかったので、レントゲンを撮ってみようか、となった辺りから空気が変わってきた。レントゲン写真を見た桜井は先ほどとは打って変わったむずかしい顔になり、午前中にCT検査をねじ込んだ。正午過ぎに診察室に呼ばれたときには、最悪の結果が出ていた。

 大腸から腎臓のあたりが真っ白に写っている。原発巣がどこだかわからないが、進行がんで間違いないだろう。入院してさらなる検査をして、そのまま手術ということになるだろう。できるだけ早いほうがいい。
 別人のようになった桜井からそういう説明を受け、これも彼が無理を言って時間外にねじ込んだ入院手続きをして、野副圭介が自宅に戻ったのは午後二時少し前だった。
 電車に乗って最寄駅に着き、駅前の駐輪場に停めていた自転車に乗って帰ってきたはずだったが、病院からここまでの記憶がさっぱりなくて、気がついたら家が見えていた。いや、家というより庭に出ている萌子が視界に入り、ああ家に戻ってきたんだ、と思ったのだった。
 萌子はしゃがみ込んで何かしている―球根を植えているらしい。褪せた草色のラッパ型の帽子、くたびれたパーカ、デニム。庭仕事をするときのいつものスタイル。帽子からはみ出している髪がいやに黒々としている。最近、美容院で染めているせいだ。萌子は圭介の十三歳下で、もうすぐ五十になる。出会って以来ずっと、妻の若さを眩しく見てきたが、最近は以前ほどには歳の差を感じなくなった。
 そういえば先週、ネットショッピングで買った球根の箱が届いていた。あれを植えているのだろう。あのときはまだ、何の不安もなかったのだ。あと十年や二十年は元気で生きていられると信じていたのだ。あのときの自分はもはや他人のようだった。圭介は道路に突っ立って、鉄柵越しに妻を見つめた。―と、萌子がパッと顔を上げた。圭介を見て、褪せた草色の帽子の下で目を見開いた。
「どうしたの。なにやってたの。何度もLINEしたし電話もしたのに。お昼ごはん、待ってたのよ」
 萌子は怒っている。たぶん痔だろうと言って出かけたから、診察の結果には何の不安も持っていないのだろう。圭介はポケットからスマートフォンを取り出した。電源が切れている。会計を待っているとき、LINEの着信音が何度か聞こえていたことを思い出した。だが、いつ電源を切ったのかは覚えていない。
「ちょっと、まずいことになった」
 圭介は言った。
「え?」
 と聞き返した萌子はまだ不機嫌そうな顔をしていた。きっと俺がつまらない言い訳をすると思っているのだ。アクリル製の衝立のようなものが、妻との間にあらわれたような気が圭介はした。そして猛烈に寂しくなった。

 圭介と萌子は二十年前に結婚した。圭介が四十一歳、萌子が二十八歳のときだった。
 圭介が元妻の紗英さえとともに構えていた設計事務所に、アルバイトとして入ってきたのが萌子だった。世間的に言えば不倫の関係になって、さほど揉めずに紗英との離婚が成立した。揉めなかったのは、萌子が事務所にあらわれた時点で、圭介と紗英の仲がすでに冷え込んでいたせいだった。ふたりの主義で、子供がいなかったことも幸いだった。自転車で十分の距離にあるふたつのマンションに、職場と自宅、ふた部屋を持っていて、職場の方を紗英が、自宅を圭介が取った。圭介はその部屋を早々に売却し、二駅離れたところに今の中古の一軒家を買って移ったが、紗英はあの部屋を、まだ事務所として使っているはずだ。
「来週の月曜日から入院だ」
 圭介は言った。今、圭介と萌子は、ダイニングテーブルに向かい合って座っている。圭介は桜井の説明をそのまま萌子に伝えた。伝えたくなかったが、俺がこの後失踪するのでもないかぎり、伝えるほかはないだろう。
 萌子は最初に「え?」と呟いたきり、ほとんど口を挟まずに聞いていた。泣きも騒ぎもしなかった。ただその顔から、面白いように急速に表情が失われていった。
「手術できるってことは、大丈夫なんでしょう?」
 紙のような顔で萌子は言った。
「いや……そういう感じじゃなかった」
「だって、じゃあ何のために手術するの?」
「多少は長く生きられるようにするんだろう」
「多少? 多少って、桜井くんが言ったの?」
「言わないよ。そんなこと、面と向かって言えるわけないだろう。ただ、楽観的な言葉はなかったよ」
「良くなる可能性があるから手術するんでしょう」
「開けるだけは開けてみるって感じじゃないかな」
「桜井くんがそう言ったの?」
「いや、だから……」
「ちゃんと聞いてこないと。自分のことなんだから」
 圭介は黙り込んだ。実際のところ、ちゃんと聞いてこなかった。仕方ないだろう、ショックが大きすぎたのだ。俺は死ぬんだ。それは間違いない。どんなに責められても、事実は変えようがない。妻にもそれをわかってほしいと圭介は思う。
「ごはん、食べてないんでしょう。何食べる」
 萌子は話題を変えた。
「昼はいい。食欲がないんだ」
「どこか具合が悪いの」
「はは」
 圭介は思わず笑ってしまった。萌子は傷ついた顔になった。圭介は修復の言葉を探したが、思いつく前に萌子はスマートフォンを取り出して操作しはじめた。通話ボタンを押す画面が見えて、桜井にかけているのだとわかった。「ただいま電話に出ることができません」というメッセージが洩れ聴こえてきても、萌子はスマートフォンを耳に当てたままだった。そのかたくなな横顔に圭介はやっぱり寂しさを感じた。



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