見出し画像

【試し読み】井上荒野さん『不幸の****』

(イラスト:MIKITAKAKO デザイン:albireo 西村真紀子)

■著者紹介

井上 荒野(いのうえ・あれの)
1961年東京生まれ。成蹊大学文学部卒。1989年「わたしのヌレエフ」でフェミナ賞、2004年『潤一』で島清恋愛文学賞、2008年『切羽へ』で直木賞、2011年『そこへ行くな』で中央公論文芸賞、2016年『赤へ』で柴田錬三郎賞、2018年『その話は今日はやめておきましょう』で織田作之助賞を受賞。他の作品に『もう切るわ』『ひどい感じ 父・井上光晴』『夜を着る』『リストランテ アモーレ』『あちらにいる鬼』『あたしたち、海へ』『そこにはいない男たちについて』『百合中毒』『生皮 あるセクシャルハラスメントの光景』『小説家の一日』『僕の女を探しているんだ』などがある。

■あらすじ

所属する劇団が分裂しかけていることを聞いたばかりの沙恵美は、ホームクリーニングの仕事のため、約束の時刻に豪邸に着いた。しかし、家の奥さんは予定を忘れていた様子で、さらに間男らしき男もいる。沙恵美の見立ては正しく、奥さんことるみはある思惑を持って、大学時代の知人男性を招いていた。
不満と憤り、苦境にある、そんな二人の耳に唐突に、暴力的に届いたのは、子どもが悪戯で叫ぶ女性器の俗称だった。

■本文

 いし

 どこから飛んでくるのか、駅前のロータリーには桜の花びらがまだ残っていた。沙恵美はそれを無意識に地面ににじりつけた。バス停前のベンチに座り、スニーカーを履いた自分の足がペイブメントの上で前後に動くのを、他人のもののように見下ろしながら、「やめる?」とほとんど叫んだ。ベンチの片側の端に、巨大なスーツケースに凭れて立っていた髭もじゃの外国人が丸い目を向け、何のつもりかニタっと笑った。
「やめるっていうか、やめたのよ」
 電話の相手は静かに訂正した。同じ劇団のあいだ。そのことを伝えるために電話してきたのだ。演出家のいそがいふとしが劇団を去る―というか、去った―と。
「磯貝さんがやめちゃったら、あたしたちどうなるの」
「あたしもやめようかな」
「藍子まで何言ってるの。だめだよ、そんなの絶対だめ」
「あたしは沙恵美ほどは執着ないもん」
「あ、バスが来た。切るね。こっちからまたかける」
 沙恵美から電話を切った。バスなんかどうでもいいという気分になっていたのだが、「執着」という言葉にかっとしたのだ。

 バスを見送らなかったから、その家には定時に着いた。午後一時半。門の横に立派な桜の木があって、やっぱり盛大に花びらを散らしていた。前回来たのは打ち合わせのときで、この家のハウスクリーニングは今日が初日だった。都内としてはびっくりするほど敷地が広く、門のずっと向こうに佇んでいるモダンな黒壁の二階家は、あいかわらず個人の住宅というよりは記念館とか美術館みたいに見える。
 ツルツルした黒い石に「おうさか」と彫り込まれた表札の横の呼び鈴を押してからしばらく待たされ、インターフォンから「はい」という女性の声が聞こえた。打ち合わせの日に会った奥さんに違いなかったが、寝ていたところを起こされたみたいな声だった。お掃除メイトの石田です、と名乗ると、あっという小さな叫びが聞こえたから、今日の約束を忘れていたというふうだった。
 さらに少し待たされてからドアが開いた。この家の奥さんの歳の頃は三十代半ば―沙恵美と同じくらいだ。切れ長の大きな目の美人で、スタイルもいい。この前はデニムに高級そうな白いシャツという姿だったが、今日は体にぴったり張りつくような花柄のジャージーのワンピースを着ている。玄関ホールの向こうは扉がなくてすぐリビングで、そこに男がひとりいた。強盗でも入ってきたかのようにこちらを凝視している。
「あの、お掃除メイトの石田ですが」
 沙恵美は、持参したスリッパを履くと、あらためてそう言った。奥さんは頷いた。ワンピースの裾の一部が膝上までせり上がっていて、奥さんは「はい、よろしくお願いします」と言いながらそれを引っ張り下ろした。
「じゃあ僕はこれで」
 男が、沙恵美ではなく奥さんに向かって囁いた。水色のポロシャツとチノパンという大学生みたいな出で立ちの、小太りのこの男も、やはり同年輩に見えた。
「あっ、ちょっと待って。ちょっと用事が―話すことがあるから」
 奥さんは男の腕を摑んだ。ほとんど捕獲したと言っていい摑みかただった。私たち、書斎にいますから。お掃除するときにはノックしてくださいね。奥さんは男の腕を摑んだまま螺旋階段を上っていった。
 なんだ、今のは。
 沙恵美はムカムカしながら、エプロンをつけた。打ち合わせの日にこの家の主人はいなかったから、あの男が夫だと考えることもできるが、そうは見えない。あのふたりはどう見ても夫婦じゃない。とすれば、あの男は間男か。今日がお掃除メイトの日だということを奥さんは忘れて、男を家に引っ張り込んでいたのか。そんな感じだった。そして私がいるのに、今また、書斎にしけこんでいる。信じられない。金持ちがやることはわからない。掃除女にバレたところでどうってことないとタカをくくっているのかもしれない。
 もちろんこのムカムカは、この家で発生したものではなく、さっきの藍子からの電話よりも前、この半年ほどずっと沙恵美の体の中で煮立っている感情に、濃度が加わったというべきものだった。沙恵美はエプロンの前ポケットに両手を突っ込んで、意味もなく室内を見渡した。これ見よがしな革張りのソファ、これ見よがしなガラストップのテーブル、これ見よがしな観葉植物、これ見よがしなリトグラフ、これ見よがしなダイニングテーブルと六脚の椅子、これ見よがしなシャンデリア、これ見よがしなアイランドキッチン。金持ちが金持ちであることを全力で言いたてているような家だと、前回来たときから思っていた。
 掃除に取りかかるためには玄関の横にある納戸から掃除用具を取り出さなければならなかったが、ムカムカがおもりになったみたいに動けなくなり、沙恵美はスマートフォンを取り出した。藍子にかけ直すつもりだったが、直接聞いたほうが早いと思いつき、磯貝太の番号にかけた。呼び出し音が聞こえてくると、どうせ出やしないだろうと思えたが、三回で相手に繫がった。
「早いな」
 と磯貝が言ったのは、自分がやめることが伝わるのが早いな、という意味に違いなかった。
「なんで?」
 沙恵美はまた叫ぶように聞いた。この家の人たちに聞こえたってかまわないという気分になっている。どのみちあっちはあっちで、自分たちのことで忙しいだろう。
「心が折れた」
「折れちゃだめだよ。闘わなくちゃ。そう言ってたじゃない。私たちの劇団でもあるんだよ」
おとむらが書いてきたあたらしい脚本(ほん)、見てないだろ」
「え? 知らない」
「臨月の妊婦が主役なんだよ。さえぐさ穂花ほのかにやらせるんだと」
「はあ? どういうこと?」
「想像妊娠の話だけど、舞台は本物の妊婦にやらせるってわけ。三枝は妊娠してるんだと。何ヶ月っていったかな、知らんけど、もう安定期で、だから稽古もできるって。腹が十分でかくなったところで公演。三枝ありきの芝居なんだよ。妊婦の健康を考慮して、公演数は少なく、でも一回一回を最高の舞台にするんだとさ。もう意見するのもバカバカしいだろ?」
「それでも反対しなくちゃ」
 沙恵美はどうにかそう言ったが、声は自分でもわかるほど弱々しかった。穂花が妊娠。もちろん、半年前ふらっと劇団にあらわれた三枝穂花が座長の音村に気に入られ、今ではふたりがそういう、、、、関係であることは劇団員みんなが知っている。でも、妊娠? 臨月で舞台に出す? ということは、産ませるということか。当然そうだろう。そして結婚するということか。僕は家庭を持たない。家族を持つという生きかたはできない。音村は私にはそう言っていたのに。
「旗揚げのことは聞いた?」
「旗揚げ?」
「俺、自分の劇団作ろうと思って。分裂ってことになるんだろうけど、もうそれしかないかなって」
「待ってよ。じゃあ〝水軍〟の名前はどうなるの。お客さんは〝水軍〟についているんだよ。昔からのファンだっているんだよ」
「はっきり言えよ。客は〝水軍〟じゃなくて音村についてるって。沙恵美はそういう考えなんだろう。だから声をかけなかったんだ」
 沙恵美は息を呑んだ。さっきの藍子との電話と同じだった。私が音村に執着していると、磯貝も思っているということか。劇団員はみんなそう思っているのだろうか。
 そのとき呼び鈴が鳴り響いた。沙恵美はぎょっとして思わず電話を切ってしまった。磯貝は、沙恵美が腹を立てて切ったと思っただろう。実際のところはそうかもしれない。
 呼び鈴は三回続いて鳴り、「はい」という奥さんの物憂げな声が、おそらく一階にもあるのだろうインターフォンのスピーカーから聞こえた。
「****!」
 甲高い子供の声が、女性器の俗称を叫んだ。



※ 続きは電子書籍版でお楽しみください。

U-NEXTオリジナルの電子書籍は、月額会員であれば読み放題でお楽しみいただけます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?