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自分の撮る日常写真の意味を考えていたらもう深夜の2時過ぎた ……からとりあえずメモ の完全版


高校3年生の2学期が始まって1ヶ月がたった。どこかにセンター試験まであと100何日と書いてあった気がする。卒業が確実に、そして思っていたよりも早いペースで近づいてると思うと、なんだか急に寂しくなる。                                             

そしてこんな夜中にこそ、余韻に浸りたくなる。眠れないし、4ヶ月前にあった人生最後の体育祭を写真で振り返ろうと思う。





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青い………………








(ここで言う‘’写真‘’は、日常をありのままに記録する写真のこととしています)


写真を眺めているとき、目の前に広がるそれはなんだか自分のものではないような気がしてくる。でも、汗の匂いと砂埃と、体の内からエネルギーが溢れ出て、楽しくて楽しくて仕方がない感覚は覚えている。不思議だ。そういう、記憶との絶妙な距離感がよくわからないけど好きだ。この距離は、写真を撮ったその日の自分と、その写真を見ている今の自分との距離だ。写真はその存在を示してくれるもので、その日の自分と今の自分との違いに気づかせてくれる。

たった4ヶ月なのかもしれないけれど、これらの写真を撮った日の自分と今の自分はかなり違うと思う。この4ヶ月の間に、学校で色々なことを学び、本をたくさん読み、人にもたくさん会って話をした。私は日々さまざまなものを吸収し、影響を受け、新たな考えを生み出し、小さくとも変化している。4ヶ月前の自分も、1週間前の自分も、昨日の自分も、今の自分とは確実に違う。それを気づかせてくれるのが、日常を切り取る自分の写真なんだと思う。

写真は、このときの私はこんな視点で世界を見ていたんだ、という発見をさせてくれる。もし今の私がその写真を撮ったときに戻れたとしても、もう同じ視点で目の前に広がる光景をとらえることは出来ない気がする。違った構図でおさめるかもしれないし、もっと別の瞬間を切り取るかもしれない。そう思うのはきっと、毎日、毎瞬、気分も考え方も変わっているから。それらを間接的に記す写真は、自分自身の記録でもある。言わば日記のようなものだと思う。                                                 

そう気がついてから、ただなんとなく残したいと思って日常を撮っていたことに、きちんと意味付けがされたように感じる。もちろん大切な思い出を形に残したいという意味もあるけれど、自分自身を記録するためという大きな意味を持ったその行為は、私のなかでより一層大事にしたい習慣になった。

カメラを手にしたばかりの高校1年生のときの写真も、今の写真も、同じように大好きだ。                                             

卒業まであと5ヶ月。私は何を想い、何を考え、ファインダーの向こうを見つめるのだろうか。明日の自分が、将来の自分がなんだかすごく楽しみに思った夜でした。












写真楽しい。いつも拝見してくださってありがとうございます。