呪い呪われる僕たちは

ここ数日、様々な形でライブのアーカイブに触れる機会が多い。それぞれが描く意思、歌う言葉は違えど思いが込められている舞台ということに代わりはない。
そんなアーカイブ達を作業の合間に見ながら「きっと、このライブに救われた人間は大勢いるんだろう」なんていうことを考えていた。救われる、なんて陳腐な言葉にまとまってしまうのが惜しいほどに、言葉や歌によって人生を変えられたという人間は多い。
実際自分もその一人で、一年前の武道館がそれにあたる。それ以前の半生に無かったものを受け取ってしまって、それをしっかり抱えながら生きてきた。明日を生きる活力となる言葉、想い、感情。きっと、皆抱えているだろう。

僕たちは、何かに救われている。それは同時に、囚われているとも言える。誰かがこう言ったから、この言葉があったから、こうしてくれたから。そうやって自分が変わったきっかけを他人に委ねて、誰かの力を借りながら自らの生を進めようとする。それは裏を返せば自分一人だけではどうにもできない、ということなんだ。
言葉は時に救いとなり、時に呪いともなる。そしてその二つは本質的に同質のものであり、ただそれが自分の中でどのように働いたかによって我々は区別しようとする。ある日突然、今まで救いだったものが呪いに転じることもある。今まで縋っていた物にふと背を向けると、ただ囚われていただけなんだと自覚する瞬間ほど、グロテスクなものは無いと自分は思う。誰かを呪うつもりで吐いた言葉が誰かの救いに成ったり、誰かを救おうとした言葉が呪いとして残ることだってある。
この国には言霊という言葉があるように、人が紡ぐ言葉には何かしらのエネルギーが籠っている。救われた、と言っている人間は、そのエネルギーに体を委ねているだけに過ぎない。

これこそ、人間の最も尊い部分であると自分は思っている。
人は独りで生きていくことは出来ない。必ず誰かの力を借り、時に誰かの力と成り、生きている。それが当たり前で、気負うことなどどこにもない。
誰かの言葉を自分の救いとして、今日と少し変わったような明日を生きていく。それはきっと自分だけじゃないはずだ。
そこから生まれる感謝や嫌悪という感情はまた別のフェーズだ。他人という存在を含めて考えるのは、自分の内側で消化しきってからでいい。

救いそのものを神聖化する必要はない。呪いそのものを嫌悪する必要もない。
ただ僕たちは、呪い呪われ合って生きている。きっとそれだけが真実だ。


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