思考吐露:愛されるよりも愛したい?
「愛されるよりも愛したい」もしくは「愛するよりも愛されたい」
あなたはどちらですか? という問いかけをされたことがある. 当時の私は愛したい派だったと思う. 私の両親は愛されたい派だったからだろうか?私自身には愛されるという経験が不足していた. 故に愛されることは居心地の悪いものだったと認識している. 狩られるのを待つ側よりも狩りに行く側のほうが耐えられるとでも思ったのか. なんにせよ 受け手の立場が苦手だった.
そもそもこの問いは片思いが前提なのだろうか? 願わくば・・・私は「愛している人に愛されたい」「愛してくれる人を愛したい」 愛の等価交換を希望します.
私にとって「愛」とは育む時間. 手間暇を惜しまず時間をかけるということが愛だと思っています. 意見が合わなくて喧嘩をしても妥協したり仲直りしたり(家族のこと) 抜け毛はいっぱいで ごはんも食べ散らかしても 心置きなく寝てたり(愛犬花子のこと)、花が咲いて桃色に染まったかと思えば萌黄色の新芽を吹き緑が濃くなったらと思ったら紅葉しあっという間に枯れ木のような姿になっても(桜のこと) 種を植え育て春から秋にかけ半年かけて収穫したもち米を蒸かし丸めたおにぎりに 種を植え秋から春にかけて半年かけて育て収穫しこし餡にした物をまとったおはぎも(母の作る「とうまめ(ソラマメ)のおはぎ」のこと)どれからもゼロ次元の「愛」を感じるので・・・わたしは 愛(め)でている. 男女間の情動に象徴されがちな愛もこの中に含まれるので 育んでいく時間が愛なのかと.
わたしがそう思うようになったのは 15年以上前にみつけたちょっと迷惑な細胞と共存するようになってすぐの頃に読んだ雑誌のコラムを読んでからかもしれないのでご紹介しようとおもいます. 今の私を形作る一因になった一文は文章全体の後半部分.
痛みに耐え 副作用に耐え 思うように動かなくなった体に手を焼きながら暮らす中で それでも どうにかして笑って暮らしたいと思っていた時に見つけた文章でした. 病気に侵された細胞を切る勇気をもち 体の中で新しく目覚め作られていく細胞を想像し 闘病に疲れもう嫌だと凹んで投げやりになり まぁそんな時もあってもいいかといいかげんな時も 思い通りにならないことと 愛を感じて生きるということは別の問題だと気が付くことができてよかったなと思うのでした.
そしていつも思うのだけど・・・
選択肢が2つの場合が多いのはなぜなんだろう?
勝と負 善と悪 愛されるか愛するか
対のほうが選択しやすいのかな?
右脳と左脳の攻防?? なぜ2択にしちゃうんだろう??? 不思議だ.
そして私は「きのこの山」派です!
今日の思考吐露はカンナさんのこの一言から自分なりに深堀してみました
カンナさん 私の小さな脳ミソにピピピッと電気信号を送ってくださりありがとうございました!
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