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ナボコフ『ロリータ』

unigakikoeruです。かなめくんと信濃さんがやってるToughという読書会メンバーに入れてもらいました。いぇい。

さて、今回はナボコフの『ロリータ』です。これは僕が提案しました。なんで『ロリータ』なのかを書いてたら長つまらない文章ができたので、一番最後に置いておきます。これも後述するんですが、今回は読解というよりは、プリミティブな感想を書いていこうかなと思います。

①語り手の自己主張が強い

『ロリータ』はハンバート・ハンバートという男の手記の体裁をとっています。
「殺人者というものは決まって凝った文体を用いるものである」と彼自身が地の文において語っています。このスマートというよりかは、粘着質な文体を楽しめるかどうかが読み進める上でのポイントかと思われます。

『ロリータ』というからにはロリータという少女の話だと、誰しも想定するはずですが、実際にロリータが登場するのは文庫本にて71頁目。ここまで読み進めるのはけっこうかったるいです。

ハンバートのレトリックは、ロリータという少女についての描写よりも、「ロリータと向き合ったときのハンバート自身」を描写する上で発揮されている印象です。

笑ってしまった箇所があるのですが、同じソファーにハンバートとロリータがともに座っている場面があります。ハンバートの膝の上にロリータが脚を乗っけます。このときハンバートはうまく身体をスライドさせて「我が情欲」——ようするにちんちんですね——が脚に当たるように調節し、擦ります。

我が肉体の中で沸き立つ喜びを煮出すこと以外は、何事もどうでもよくなるような、そんな存在状態の平面に入ったのだ。初めのうちは我が内奥の根源が甘美にも膨張しただけだったのに、燃えあがる疼きとなって、それが今や意識的な生活の他のどこにも見つけられないほど絶対的な安心、自信、信頼の状態に到達したのである。濃厚で熱い甘美さがこうして確立され、それが究極的な痙攣へと向かおうとしているさなか、私はその至福を長持ちさせるために速度を落とそうかと思った。

この調子が文庫本にして五頁ほど続きます。
しょうもない内容なのにすごいいかめしい文章だなと思いました。

②話の筋が途中まではけっこう面白い

この部分はややネタバレになるので、気にする人は③まで飛ばしてください。

ハンバートはとくに期待しないで行った家に12歳の少女がいると知って喜ぶのですが、その家の女主人であり、ロリータの母親、シャーロット・ヘイズ夫人の方が、ハンバートに好意を寄せます。
そして、シャーロット・ヘイズ夫人は娘のロリータをサマーキャンプに送ろうとします。
ハンバートはこの話を聞いて機嫌が悪くなり、その言い訳として「歯が痛い」ことにします。

「本当に、サマーキャンプに行ったら喜ぶんでしょうか?」と私はとうとう言った。
(なんたる弱腰、嘆かわしいほど弱腰じゃないか!)
「そのほうがいいんです」とヘイズが言った。「それに、遊んでばっかしじゃありませんし。キャンプの主催者はシャーリー・ホームズで、ほら、『キャンプファイヤー・ガール』を書いた人。キャンプでは、いろんな面でドロレス・ヘイズ(※ロリータの本名)が成長するように、教えてくれるそうですし——健康とか、知識とか、気性とか。それと特に、他人に対する責任の面で。そこの蝋燭を持って行って、しばらくピアッツァ(※イタリア語で「広場」の意)で座りません?それとも、もうお休みになって、歯痛のお守りでもなさいます?」
 歯痛のお守りをさせていただきます。

シャーロットが「もっとおはなししよ♡」と言ってるのに対して、ハンバートがガン萎えしてるのが、地の文が敬体になることでひしひしと伝わってきて、よいですね。

このようにハンバートは「シャーロット邪魔やな〜」とずっと思っているのですが、なんと、ロリータのそばにいつづけるためにシャーロットと結婚します。さらに最悪なことに、結婚した後、「シャーロット、死なねえかなあ〜」と思うようになります。しかも死にます。このスピード感はすごいです。
おもしろおかしく書いてしまいましたが、ハンバートはほんとにひどいやつだと思いますし、人によっては胸糞悪いかもしれませんね。

これは、けっこう序盤の展開なんですけど、後半の第二章は個人的にはあんまりでした。再読したら印象変わるかも。

③ロリータってどんな少女なの?

これはかなり主観が入ってしまうのですが、ロリータには、妖艶なイメージとか、もしくは儚げなイメージとか、そういうのはないです。どちらかというと、悪ガキみたいな感じです。

「マックーとこの女の子って? ジニー・マックーのこと? ああ、あの子ってキモいのよ。それにイジワルだし。それにビッコだし。小児麻痺で死にかけて」

口が悪い。
いろいろ語弊があるかもしれませんが、「フワちゃん」だと僕は思いました。

ちょっと話は逸れるのですが、コミックLOというロリータ専門のエロ漫画雑誌があります。
LOというと、たかみちによる肌の露出等もあまりない清潔感のある表紙や、「孤独をつぶやくな。沈黙を誇れ。」みたいなおしゃれなキャッチコピーが印象的です。
また、町田ひらく、雨がっぱ少女群、三浦靖冬、東山翔、関谷あさみといった作家による、繊細な絵、心理描写を特徴とした読み応えのある作品も目立ちます。東浩紀がLO作家のクジラックスを評価したこともありました。

言うまでもないことですが、成人男性が、少女と性的関係を持つことは犯罪です。小児性愛を描くということは必然的にその罪とどう向き合うかが問題となってきます。
ただ、僕個人の意見としては、コミックLO作品にも見られる「罪と向き合う」という観点は、いささか持ち上げられすぎているのではないかと思う節もありました。
前述のLOの表紙、キャッチコピーの上品さもあいまって、ちょっと実際の欲望の下品さ、グロテスクさと乖離が起きてるんじゃないかとも、思っていました。

『ロリータ』におけるハンバートは、キモくてダサいのにレトリックだけは一丁前で、それがまたキモくて、結局低俗じゃない?という点で、変に「高尚な文学作品」として気取ってないのが、逆にいいところかも?と思いました。

あと、余談ですが、『ロリータ』においてハンバートは、性的魅力を持つ少女を「ニンフェット」と呼んでおり、「ニンフェット」の成立条件として、「9〜14歳であること」、そして男性は「30歳を超えていること」を挙げています。
だから、そのへんの二十歳前後の大学生とかが「やべーおれロリコンかも」と露悪ぶってても、ナボコフ的には全然違うということになります。

④今回『ロリータ』を読むことにしたわけ

『ロリータ』は、いろんな人が評価している作品だし、世界文学の歴史に名が残っている重要作の割に、実はちゃんと読んだことなかったなあと思って挙げました。

『ロリータ』をフェイバリットに挙げている作家としては佐藤亜紀などが浮かびます。金井美恵子とかもナボコフ好きなイメージがあります。

小説家って僕の中で勝手に「物語派」と「表層派」がいると思っていて——まあこんな言葉はないんですが——「ストーリーテリングに重きを置く派」と、「ストーリーはあくまで小説を駆動させるエンジンに過ぎず、その上で展開させるイメージに関心がある派」に大別しています。

「物語派」の代表はドストエフスキーとかバルザックですね。なんというか、大袈裟で、人がドタバタ動いて、怒ったり嘆き悲しんだりうち打擲(ぶん殴るの意。ドストエフスキー頻出表現)したり……。日本では桐野夏生とか中村文則がこの流れをやってる気がします。

「表層派」はそういう「物語派」を小馬鹿にしています。まずナボコフはドストエフスキーを評価していません。これは『ナボコフのロシア文学講義』に書かれています。金井美恵子もそうですね。金井美恵子は、村上春樹もドストエフスキーの系譜を継ぐものとして馬鹿にしています。

一方、ナボコフが評価しているのは、フローベールです。『ナボコフの文学講義』において有名なのが『ボヴァリー夫人』に見出すことのできる「重層主題」です。登場人物シャルルが被る帽子、シャルルの結婚式で用意されたケーキ、シャルルの家、シャルルが妻のために用意する棺。これらすべてにおいて、何層にも重なっているさまがフローベールによって描写されています。物語の本筋とは一見関係ないように見えるその表層に、ナボコフは相似を見出します。

僕個人としてはそういう「表層派」かっこいいなあと思ってるけど、あまり意味はわかってないです。ジョン・フォードの映画には布がたなびいてる描写が頻出するとか。実際、僕は物語の筋を追いかけるような読み方でしか、小説を読めてないことが多いです。

ナボコフはそういう「筋しか追えない読者はダメだ」と『文学講義』でも言っています。

今回この『ロリータ』は新潮文庫の若島正訳で読んだのですが、この若島さんも非常に評価の高い翻訳者であり、読み手です。リチャード・パワーズみたいな現代の作家や、スタージョンみたいなSF作家の翻訳も手掛けてます。

若島正の著書『ロリータ、ロリータ、ロリータ』においても、物語の筋よりは細部にこだわった読みが披露されています。
たとえば、『ロリータ』をよく読むと、「サングラス」「双眼鏡」「二つの目」のような「双眸の主題」ともいうべきガジェットが作中に散りばめられていることがわかります。
また、テクスト内でさまざまな要素が交錯しており、「ここで脱ぎ捨てられた靴下は、ここにまた出てくる」みたいな、今風にいうと「伏線回収」的な話もあります。

でも、「表層派」に憧れつつも、そこまでのリテラシーがない僕としては「そんなに精緻には読めないよ」というのが正直な感慨です。
冒頭で予防線のように「プリミティブな感想」と書いたのは、若島正とは逆方面でいこうという理由からでした。

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