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それは本当の感情じゃ、ない。そのまんま吠えてみろよ。

おもしろければ声を出して笑い、腹が立てば身を捩らせて抗議する。そんな幼な子のように感情と行動にラグがない状態ならば、感情はけろっと引いていく。
しかし、集団生活を始める頃にはすでに我々は「社会性」「理性」を身につけ始め、思うままに振る舞った結果友を泣かせたり親に嗜められたりする中で、感情とは別に「ここではこのように振る舞うべきである」というパターン行動を学習していくのだ。

幼い姉が、更に幼い妹に、「どーぞ」とおもちゃを譲る。
「まあー! さすがお姉ちゃん! 優しいねえ。偉いねえ」と誉めそやす親には、一切の悪意はないだろう。

果たして姉は、ふと思いつきで譲ってみようと思ったのか? それとも、妹に譲れば親が喜ぶとわかっていたのか?

こうして、行動そのものには善も悪もない中で、特定のシチュエーションである特定の行動をすれば利益(賞賛、愛情、お金)を得られるということを学習し、そんな行動をする自分がいつしか「人格」となってくる。

そうしてそれを繰り返した大人の大多数は、もう率直な一次感情をそのまま表出するなんて、到底出来なくなっている。

実は、新しいことをするより、慣れていることをやらない選択の方が怖いのだ。人間には、繰り返してきたことこそ生存にとって安心であると思う脳の恒常性があるからである。

先日、わたしに対して声を荒らげた友人がいる。彼は、わたしのある行動を「非常識である」となじった。
しかし、彼はわたしを責めたかったのだろうか? わたしには、元にある彼の一時感情が透けて見えた。
それは、「自分を尊重してほしい、悲しい」。
わたしのある発言が、彼にとって、わたしが彼を軽んじているように感じられた。無意識にわたしにこう振る舞って欲しいと期待していた状況からのズレも、そこにはあったのだろう。

「なんで○○してくれないんだよ。俺のことが嫌いなのか? 俺を愛してくれ!大切にしてくれよ!」

このようにわたしに叫べたなら。そこで感情は昇華していく。
わたしにはわたしの感情があるので、わたしもそれを表し、あとは互いにどこまで理解でき認めるか、決めていくだけだ。

しかし、社会的に組織で働き、役職がつき、「父」であり「夫」であり……と沢山の肩書きがつくほど、より多面的にふさわしい振る舞いも身につけていくので、シンプルな「俺を愛してくれ」などという訴えがもはやできるはずもない。
重症なことには、本人はそれに気づいてさえ、いない。

ただ、とてつもない悲しみと失望が、怒りという二次感情を発生させ、その不快感を発散させるため、わたしを「怒る」ための口実探しが始まる。
人間が理屈を持ち、また複雑な関係性で成り立っている限り、ある場面のある行動を切り取って理由をつけてなじることなど、容易である。

そして彼は、わたしのある行動を「非常識である」とし、わたしを攻撃する理由を持った。
世間的に、人間社会的に自分の主張が正当であると思えれば、強い自信となる。
この時、「普通」「一般の人は」「人間社会では」と大きな主語で話は展開される。

しかし、お門違いなのである。

社会の話を、地球上の他の人間の話をしてるんじゃねえ。お前と、わたしで、話をしているんだよ。

自分の本心を直視することは、本当に怖い。
なぜなら、それは思い描いていた理想の自分とは程遠く、自分勝手で子どもっぽくて、意地悪で怠惰でずるくて。まあ、人間なんてそんなものである。

そんな最低な自分が、自分なんだなあって見られたときから、自分を生き始めるのだと思っている。

その勇気を持って、崖を飛ぶ思いで自身の本心を認めてきた者からは、本心から無意識に逃げ続け全く検討違いなところから不快感を発散させようとしている人のことが、よくわかる。

そして、妙な気持ち悪さを感じるのである。

世間も、常識も、関係ねえ。
あんたが、ただ「嫌」なんでしょ?

吠えてみろ!
吠えるのが怖いなら、呟くだけでもいい。

「嫌だった! 悔しかった! クソやろうが! 俺を愛せ!!」

建前だらけの鎧をいくつもガタガタ着用して、生身の本体がもう見えもしないような人とどれだけ建前でトークしても、もう何にも面白くないんだよ。

勇気を持って、吠えてみろ。
それなら、そんなあなたをわたしは多分好きだよ。