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映画『アベンジャーズ / エンドゲーム』非映画的マナーが生み出した“空間”。

2008年の『アイアンマン』から始まったマーベル・シネマティック・ユニバース(以下、MCU)の1つの終焉となる『アベンジャーズ / エンドゲーム』が、2019年に公開されたのは偶然ではない。それは『スター・ウォーズ』と『ゲーム・オブ・スローンズ』が2019年に完結したことからもわかるとおり、2020年の新しいフェイズへの準備として、あらゆる場所で終焉が訪れているのだ。

MCUと『ゲーム・オブ・スローンズ』は2010年代を代表するシリーズ作品と言えるだろう。それは2作品ともドラマや映画などの既存のフォーマットでは括れない、まだ名前のない新しいシリーズ作品であり、そのナラティブで多くの人々の価値観を変えてしまったからだ。

新しいアートについて語る時は、新しい言葉(や考え方)が必要である。それを忘れてはいけない。『キャプテン・マーベル』を従来通りに映画を語るべき言葉を用いて批評すれば、悲惨な結果になるだろう(※1)。もちろん、批評をする上で映画(とその他のアート)や批評の歴史に接続し、言葉をつくすことは必要だが、それ“だけ”だと重要な視点を見逃すことになる。

(※1) 男性社会の抑圧に立ち向かうヒーロー譚を、90年代という舞台設定で語るドラマとしては良作。だが、「立ち上がり続けてきたヒーローに男性社会の証明はいらない」というドラマの素晴らしさと、ドラマを語る点でしか動かない画面&記号的にしか見えない90年代批評について、さらにMCU(アメコミ史)の一作品という位置付け、それらは全て別々に考え、まとめないといけない。

では、本題に移る。『インフィニティ・ウォー』は、数多くのヒーローたちを集結させなければいけない問題に対して、実に大胆な解決法を選択していた。サノスのインフィニティ・ストーン集めを大筋に、ヒーローはピンチに助けに来る、ヴィランは2択を提示して分断させる、この2つだけでしか物語が進行していかないシンプルさ。そして、それぞれの単独作品の映像形式(や見せ場)を横断、シームレスに繋いでいく手際と、登場人物たちの喪失感を追体験出来る幕切れのスマートさ。『インフィニティ・ウォー』は、敗北という空洞へ滑り込んでいく特異なポジションをフルに活かした、反則にも近いほどシンプルでスマートなヒーロー映画だったと言える。

それに対して『エンドゲーム』の物語進行はかなり鈍重で、これは『インフィニティ・ウォー』で先送りにした描写のツケが回ってきたという言い方も出来るが、製作陣はおそらく、それも見越して本作では違うスタイルのストーリーテリングを採用したのだろう。『エンドゲーム』は大きく3つのパート(3幕構成)に分けられる。

①サノス殺しに象徴されるヒーローの消失とそれぞれの5年。
②ヒーローがルーツに立ち返る“タイム泥棒”。
③アベンジャーズ・アッセンブル。

①の段階で本作が『インフィニティ・ウォー』とは異なり、明確にドラマを語ろうとしていることがわかるのだが、この数のキャラクターのドラマを描くには時間が足りなすぎる。必要な描写をなんとかねじ込んではいるものの、それがドラマの羅列にしかなっておらず、画的に見せ方が優れている点もほぼない(※2)。さらに『インフィニティ・ウォー』がある種、スペースオペラ的に様々な場所に行く“開けた”作品だったのに対して、本作は(色んな場所に移動はするのだが)室内の印象が残る“閉じた”作品となっている。これはインフィニティ・サーガの“終焉”を描いた作品としては当然のアプローチだが、同時に作品と観客の距離をグッと近付ける効果も生んでいる。つまり、本作は「ドラマが羅列されている閉じた」作品であるため、我々の前に映画ではなく、“特殊な空間”として現れる。

(※2) 音楽の使い方が散漫なのも、あまりに多くのドラマが羅列されているからだと思われる。①で従来の映画の文脈に沿って楽しめるシーンは、冒頭のホークアイのシーン(対比となるスコットの家族再開シーンの撮り方は微妙)、トニーの皿洗いシーン、ホークアイ VS 真田広之のシーンだろう。

『ゲーム・オブ・スローンズ』との大きな違いはまさにここで、ドラマ的な連続作でありながら、それぞれの“エピソード”は単独作として独立しており、さらにはコミック作品としての文脈も踏まえながらクロスオーバーしていく。観客にとっても『エンドゲーム』という作品は、アートが元々持つ特性以上に様々な表情を持つ作品となる。しかも、それがNetflixなどに代表される動画配信サービスを通して、部屋というそれぞれが隔たれた環境で鑑賞するモノではなく、映画館という公共の場で公開されているのである。私と隣の観客の間には(念押しするが“元々のアートの特性以上”に)違う『エンドゲーム』があり、映画館という場所でクロスオーバーする。

それが顕著になるのが②。①でドラマを羅列していた本作が、タイムトラベルという、ドラマ的に一定の面白さが担保されているジャンルに突入するのは必然に近い。ほとんど唐突と言っていいレベルで中盤から開始されるタイムトラベル展開が、本作の非映画性 = 空間性を加速させる。『スーパーマン』(1978)のラストや、クリストファー・リーブ主演『ある日どこかで(原題“Somewhere in Time”)』(1980年)などの映画史からの引用よりも、MCUの過去作の印象的なシーンの引用に重点が置かれているため、②において、私たちが鑑賞しているのはタイムトラベル映画ではなく、MCUと過ごしたそれぞれの日々なのである。

いよいよ自分が何を観ているのかわからなくなってきたタイミングでトドメの③である。キャップ×ムジョルニアから、一気にコミック色強めにギアチェンジする段取りを経て突入する「アベンジャーズ・アッセンブル」の圧倒的物量&情報量に度肝を抜かされるが、そこからのバトルシーンは①と②がドラマの羅列だったように、驚きの手際でそれぞれのキャラクターたちのアクションが綺麗に羅列されていくだけなのである。「インフィニティ・ガントレットを車 = ゴールまで運べば勝ち」というわかりやすい進行方向の設定もあって混乱はしないのだが、アクションの躍動とは裏腹に、そのアクションが羅列以上の価値を持たないまま無機質に並べられていく様は異様である。

これで本作が①②③全編を通してドラマやアクションの羅列だけで構成されていることがわかり、本作が徹頭徹尾、非映画的なマナーに貫かれていることがわかる。これはけっして否定的な意味ではなく、MCUという前代未聞のプロジェクトの1つの区切りである本作において、選択された手法が「ドラマやアクションの羅列による映画の“空間化”」であり、その結果、私たちは劇場のイスに座りながら、トニーの葬儀に参列することが出来るのである。

2008年から2019年の、この約10年間で本作より優れた映画もドラマもあったが、ここまで私たちとアートの関係性を変えてしまったシリーズ作品は数えるほどしかない。目的のためには手段を選ばないサノスに勝利した理由も、この10年間迷い続けたヒーローたちの歴史によるものだ。より良い世界の実現は絶対的な存在が一瞬で変えるものではなく、多くの人々が迷いながら着実に進んでいく歴史であり『アイアンマン』はその最初の1歩だった。その歩みを追いかけ続けてきた我々にもたらされた今回の勝利は、今までの映画史やドラマ史の文脈では説明出来ないのである。

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