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映画『ラ・ラ・ランド』引き延ばされる瞬間と、どこまでも続いていく人生。

『ラ・ラ・ランド』の冒頭同様に、渋滞のシーンから始まる映画『8 1/2』(1963年)のラストで、自分自身の混沌を受け入れた主人公は「人生はお祭りだ、一緒に過ごそう」と言って、映画のセットの中で妄想の登場人物たちと踊る。この台詞を「人生はミュージカルだ」と言い換えるなら、ミュージカル映画は“生活が音楽”であることを惜しげもなく可視化する。

どこからともなく音楽が流れ、キャラクターたちが踊り出す時、そこに流れているのは時計の針が刻む時間ではなく“感情の時間”だ。映画『ウエストサイド物語』(1961年)で彼女の家を彼氏が尋ねるシーンで、隣の部屋にいる親に気付かれないように2人は「静かにして」としっかり確認するにもかかわらず、突然大声で歌い出す。この時の2人は“感情の時間”の中にいるため、どれだけ大声で歌おうが親に気付かれることはない。ミュージカル映画の魅力は、その「瞬間の引き延ばし」にある。ミュージカルシーンで物語の進行が止まるのは、このためだと思われる。感情が捉えた瞬間を逃さないように時間を引き伸ばし拡張する。まるで重力の強い場所では時間の進みが遅くなるように、スクリーンという宇宙の中で、キャラクターたちは踊るのだ。

冒頭、ロサンゼルスの高速道路で渋滞待ちをしている人々は、車内という隔離された自分だけの小さな世界で、思い思いの音楽を、自分なりの楽しみ方で聴いているが、そこから始まるダンスシーンで、彼らは音楽を聴く1つの集合体であり「みんなが同じ舞台に立っている」ことが宣言される。同時に「渋滞で目的地になかなか辿り着けない人々」は「なかなか成功しない夢追い人」のメタファーにもなっていて、その渋滞に巻き込まれている2人の夢追い人にカメラは降りていく。

ミアは女優を、セバスチャンことセブはジャズの店を持つことを夢見ているが、前半(冬と春)では、この2人はただ夢を見ているだけのお気楽な人たちとして描かれている。夢ばかり見ている愚か者の2人は、当たり前のように結果も出せず、文字通り冬の時代で、かなりブルーな状態。だが、不思議とそのブルーは輝いて見える。夢を見ている者の悲劇は、その夢によって不思議と輝きを放つようだ。それは言い換えるならば「若さ」と言ってもいいのだろうが、そんな青さを持ちよって、2人は一方通行を逆走するような恋に落ちる。

『ラ・ラ・ランド』同様、「シネマスコープ」を採用している名作『理由なき反抗』を映画館に観に行くシーンで、劇中のジェームズ・ディーンが課外授業に遅れてやってきたように、ミアも劇場に遅れてやってきて、間に合わなかった両者は映写機の光を通して重なる。課外授業のシーンで語られる「地球最後の日」のイメージは、惹かれあう2人と重なり、同時に本作のラストの展開を暗示しているようにも思える。

【地球最後の日が来る前に人々は気がつく、明るさを増し星が近づくのを。この星が近づくと気候が変わる。北極地帯と南極地帯は土地が分裂し、海が暖かくなる。最後の人間が空を見て驚く、星が大昔と同じリズムで動いてるからだ。今までと同じ星座が依然として輝いている、それは永遠に変わらない、地球のはかない運命をよそに。】(映画『理由なき反抗』より抜粋)

その後、2人は映画に登場するグリフィス天文台へ実際に行く。グリフィス天文台が1955年と2016年の映画を繋ぎ、フィルムが建造物の歴史を繋ぐ。サンプリング(引用)の醍醐味である「点と点を繋ぐことによる文脈の提示」と、さらに現実とフィクションが地続きである感覚、そして、それらがいくつもの層で重なっているイメージが、このシーンではハッキリと打ち出されている。ミアとセブが『理由なき反抗』という文脈を通してグリフィス天文台を眺める時、劇場にいる我々は、否応なしに映画の歴史の中に投げ出され、時計の針に反した芸術の力を感じてしまうのである。

後半(夏、秋)になると、前半で夢見心地だった2人は現実に直面してしまう。ミアの瞳の色と同じ緑色に包まれたセブの部屋で、2人は椅子に座りながら「2人の夢は今やっと叶いそう」と“City of Stars”を歌うが、このシーンは前半のダンスシーンに比べると、かなり控え目な歌唱シーンだ。本作は夢見心地な時期と、夢がどんどん現実に近づいていく時期を、ミュージカルシーンの描き分けで表現している。前半は夢見心地なので派手に、後半は夢が徐々に現実になっていくので控え目に(もしくは本物のライブに)なるというわけだ。

セブは自分の店を持つための資金集めとして、友人であるキースのバンドに加入する(※1)。バンドは軌道に乗ってしまい、たくさんの観客の前でライブが出来てしまう現実に、当初の目的である「ジャズの店を持つ」という夢が揺らいできてしまう。夢を叶えるためにしている遠回りがいつのまにか目的になるという、そんな遠回りの誘惑がセブを襲うわけだ。

(※1)本作で描かれているジャズ描写……というか、ジャズが描けてない点で描写でもないので「ジャズ観」と言った方が適切かもしれないが、とにかく筋が悪いので、ここで描かれているセブの葛藤も「音楽的な文脈」では謎である。その謎はジョン・レジェンドの立ち位置と、彼らがプレイする音楽でさらに深まる。そもそも、我々の生きている世界では、2015年を代表する1枚がケンドリック・ラマーの大傑作『To Pimp a Butterfly』なので、セブの「ジャズは死にかけている」という前提も理解出来ないのだ。

一方、ミアはオーディションに見切りをつけて、自ら脚本主演の一人舞台『さらばボールダーシティ』を公演するものの、集客が出来ず、会場の使用料も払えない始末。失意の中、楽屋に戻ると、自分の演技に対する陰口がどこからともなく聞こえてくる。「大根だ。女優はムリ」「あの窓なんだったんだ?わけがわからない」この舞台の様子は劇中でハッキリ描かれないが、この演劇がミアにとっては懐かしく、自分の部屋の窓から世界を見る話であることが説明され、舞台にはパリの街並みを映した窓の舞台装置が置かれている。

この窓はセブとミアが撮影スタジオを散歩した際に見つける、映画『カサブランカ』(1942年)でハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンがパリで幸せに暮らしていた時のシーンで登場する窓と重なる。ミアの部屋にはイングリッド・バーグマンのポスターが貼られていて、ミアにとって彼女が特別な存在だということが推測できる。憧れの女優にリスペクトを捧げた窓と、自分にとって懐かしい物語を演じた演技の否定は、自分の夢の根底を揺るがすもので、さんざんオーディションに落ちまくっていた彼女への止めの一撃となる。最初とは打ってかわって切なげなアレンジになった“Someone In the Crowd”が皮肉に流れる中、女優の夢を諦め、実家に帰ることにしたミアが走らせる車が進む道は、オープニングの渋滞とは対象的にガラガラで、まるで夢破れた者が進む道のようだ。

その後、セブの説得により、ミアは最後のオーディションに挑む。このシーンは例えばデヴィッド・リンチ監督の映画『マルホランド・ドライブ』(2001年)のオーディションシーン(※1)のようにキャラクターの演技の実力を観客に共有させ、合格に説得力を持たらせるタイプのシーンではない。本作には具体的にどうやって成功したのか?の描写はほとんどなく、成功というものが才能や実力に裏付けされない描かれ方をしている。圧倒的な才能や努力ではなく、 たまたま掴んでしまうという成功の側面は普遍的でもあるが、ネットなどが普及した時代の現代的なモチーフでもある。

(※2)『マルホランド・ドライブ』のオーディションシーンはイングリッド・バーグマンが出演している映画『汚名』のラブシーンをオマージュしていると言われている。

このオーディションはミアの才能を見せつけるシーンではなく、才能の有無に関わらず、夢を追いかけているすべての愚か者たちに捧ぐラブソングを、その中の1人であるミアが披露するシーンである。アメリカがまだパリに憧れていた時代に、パリのセーヌ川に飛び込んだ祖母の話、冷たい水の中に飛び込む愚か者たちに、映画『カサブランカ』の名台詞「Here’s looking at you,kid.(君の瞳に乾杯)」ではないが、どうか乾杯を、というわけだ。この歌で、ミアは一度は揺らいでしまった夢を見始めた頃の原風景を取り戻す。私が女優を目指した理由は、おばと雪とセーヌ川だと。

エマ・ストーンの歌と踊りも、ライアン・ゴズリングのタップダンスや帽子捌きだって、往年のミュージカルスター、フレッド・アステアやジーン・ケリーと比べたら、天と地の差と言っていいだろう。しかし、この2人の拙いステップは、今まさに映画館のスクリーンで輝き、誰かの心に火をつけようとしている。過去の作品を輝かせるのは、いつだって現在の私たちだ。フィルム撮影により遠くがぼやけ、まるで誰かの思い出の中にいるような画面には、ハリウッド黄金時代、もしくは50年代アメリカへのノスタルジーに溢れているが、この映画はそこに留まろうとせずに時計を進めようとしている。現代を生きる作家が過去の作品にリスペクトをこめ、冷たい水の中に飛び込んでいる姿は、その作品の出来がどうであれ、私は乾杯したい気持ちになる。

オーディションの後、セブとミアは出会った頃の輝くような青色ではなく、落ちついた淡い青の服に身を包み、グリフィス天文台の前で、これからの2人について話をする。『理由なき反抗』でも、グリフィス天文台は昼と夜のシーンで2回登場する。ミアが「昼間にくるのは初めて」と言うように、夜と昼ではグリフィス天文台の表情は違って見える。この昼と夜の見え方の違いは、恋愛の厄介さに置き換えることが出来る。劇中でセブが鳴らす3回のクラクションが、出会った頃と、付き合ってた頃と、喧嘩をした後では聴こえ方が違うのと一緒で、クラクションも天文台も何も変わっていないのに、2人の間に流れる時間経過による関係の変化が、その意味を変えてしまうのである。その点において、音楽がなかなか厄介な装置だということは言うまでもない。ただのBGMだったはずの音楽を聴いて、突然走り出してしまうようにーー。

ラストで一気に5年の歳月が流れ、セブは自分のジャズの店を持ち経営も順調、ミアも女優として成功している。ミアの顔が描かれた映画のポスターの前を素通りするセブは、ミアの活躍を間違いなく知っているはずだ。セブがバンドで活躍していた時に、ミアはそれを観客席にいる大勢のファンの1人として見守っていたが、この5年で立場が逆になったというわけだ。

冒頭で「渋滞で目的地になかなか辿り着けない人々」=「夢追い人」の構図を成していた高速道路から、夢を叶えたミアは降りて、同じく夢を叶えたセブの店を偶然訪ねてしまう。『カサブランカ』においてハンフリー・ボガード扮するリックが経営している店に、かつて愛した人であるイングリッド・バードマン扮するイルザが偶然やってきて、リックは「世界中にごまんと酒場はあるのに彼女はここにきた」と言うが、セブも同じ気分だったはずだ。あの頃の想像とは少し違う未来で再び出会った2人は視線を交わし、リックとイルザにとって、愛しあったパリを思い出す曲が“As Time Goes By”であったように、セブも2人の思い出の曲をピアノで弾き始める。

そこから書き割りを使用したミュージカルシーンに突入する。ラストの派手な見せ場となるミュージカルシーンを『イースター・パレード』(1948年)や『バンドワゴン』(1953年)のように「舞台で上映されている演目」として見せるのではなく、本作は『巴里のアメリカ人』(1951年)や『雨に唄えば』(1952年)のように、主人公たちの頭の中の妄想として見せる。『雨に唄えば』では主人公が劇中で製作に関わっている映画のアイデアを「こんなシーンはどうですか?」と提案する際に、『巴里のアメリカ人』ではフラれた画家志望の主人公が“絵の中のパリ”に逃避する際に、脳内イメージがミュージカルシーンとして登場する。

それが『ラ・ラ・ランド』においては「あったかもしれないもうひとつの人生」として登場する。『巴里のアメリカ人』や『雨に唄えば』と決定的に違う点は、この脳内イメージがセブとミアの2人によって作られた世界に見える点である。劇中のシーンや小道具を引用しながらのミュージカルシーンは、誰もが抱くであろう過去への逡巡を映像化するのと同時に、夢を現実にしてしまった2人が、高速道路を降りた先で、まだ夢見心地だった頃の“愚かさ”を取り戻すシーンにも見える。そこに2人を導いたのは音楽という厄介な装置だ。感情が体感時間を歪めてしまうように、音楽も空気を振動させ、空間を歪めてしまう。音楽は記憶と結び付き、過去と現在と未来を鮮やかに行き来して、今ここにいる瞬間を全方位に拡張していく。セブとミアはかつての愛(感情)と音楽の力によって、時間も空間も超え、引き延ばされた瞬間の中で踊ったのである。

【チャゼルは言う。「本当に深い感情は時空も現実も物理法則も超える」ミュージカルで人が突然踊り出すのはそれなんだと言う。「気持ちが心にあふれた時、天国から90人編成のオーケストラが降りてきて演奏してくれるんだ。それはバカバカしいかもしれないけど、真実なんだ。少なくとも僕にとって」】(劇場パンフレットより引用)

ピアノの演奏が終わり、2人は現実の世界で見つめ合う。フランスのミュージカル映画『シェルブールの雨傘』(1964年)では、離ればなれになり、別れてしまった恋人のそれぞれの辛い時期、男性側の「戦争」、女性側の「結婚生活」という、主人公たちがお互いに知らない闇の部分は描かれない。そのため、男が経営するガソリンスタンドに偶然、女がやってきて久しぶりに再開するシーンで観客も主人公たち同様、お互いの辛かったであろう日々を表情から想像するしかなく、その視線のやりとりは言葉よりも雄弁に、どこまでもすれ違ってしまった男女の関係を物語っていた。 

それにならって『ラ・ラ・ランド』でも、2人が5年の間にどうやって夢を叶えたのか?は描かれないので、観客は主人公たち同様にその表情から想像するしかない。有名人になったミアの動向はおそらくメディアを通してセブは知っていただろうが、それでも2人の人生はすれ違ったままで、お互いに知らない人生がそこに生まれていたはずだ。この映画で描かれていたのは夢を見ていた頃と、それが終わり、夢が現実になっていく入り口までで、そこから先の5年間、夢の入口の先にあった現実は描かれていないが、そこは出会った頃のように夢見心地では居られない場所だったはずだ。夢を叶えた2人の、共有出来なかった相手の人生を想像する視線のやりとりが続き、最後は笑顔で別れる。その笑顔はお互いの空白の5年間の健闘を称え、この道は決して間違いではないと強く信じる気持ちに溢れている。

もし、ここで2人が結ばれていたら、本作に溢れている50年代へのノスタルジーは成就してしまい「あの頃は良かった、それを取り戻すことが最良の人生」と、レーガン大統領の掲げたスローガンのような映画になってしまっていただろう。しかし、ラストにおいて、50年代のノスタルジーにどっぷり浸かっている「過去にこだわる男」のセブは、笑顔でミア = 過去に別れを告げ、またピアノを弾き始める。嘘のように輝くハリウッドの夜景に浮かぶ「The End」の文字が、50年代をまた記憶の棚の中に仕舞い込む。そこで描かれるのは、ハッピーエンドでも、サッドエンドでもなく、どこまでも終わらない「続いていく人生」なのである。時間や空間を超える、愛や音楽を引き連れて、私たちの人生はえんえんと続いていくのである。(了)

『ラ・ラ・ランド』の監督デイミアン・チャゼルが脚本で参加しているコチラもオススメ↓

青春時代特有の居場所を求める不安定な“移動”を的確に解釈して、カメラに捉えることが優れた“青春映画”の条件である。『10クローバーフィールド・レーン』が画期的なのは、冒頭のガソリンスタンドのシーンが『激突』(1971年)のオマージュであるように、青春映画の“移動”を“活劇(ひいては他の映画ジャンル)”として見せた点だろう。

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