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記事一覧

「生きること、それは……」、10年前の切れ痔、さよならの仕方

「生きること、それは……」、10年前の切れ痔、さよならの仕方

「生きること、それは空間から空間へ、なるべく身体をぶつけないように移動することなのである」。「田原俊彦を鉄アレイで殴り続けると死ぬ」もそうだけれど、わたしはきわめて表層的な即物性に惹かれる傾向がある。人々の虚を突いて、やがて「そりゃそうだ」と、あきらめたように笑みがこぼれる、そんな表現。身もふたもなさ。深さ、よりも浅さ。そこで息づく明るさ。

「見たまんま」の、ぽかーんとした物言い。ペレックが定義

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2022/07/13. どこで恥ずかしくなったでしょう、リアリティの破れ目、本当の恐怖

2022/07/13. どこで恥ずかしくなったでしょう、リアリティの破れ目、本当の恐怖

7月13日(水)

「クイズ! どこで恥ずかしくなったでしょうか?」を見た。「人間はどこで恥ずかしくなるのか? それは他人にはわかるのか? 恥の概念にせまるクイズです」と概要欄にある。深く考えても浅く楽しんでもおもしろい。すばらしいクイズ。人間はどこで恥ずかしくなるんだろう。

「見てる人が見えなくなるとすごい恥ずかしい」という古賀及子さんの発言がもっとも示唆的だと思う。「不安になると恥ずかしくな

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おままごとのジレンマ、リアリティ、平等、書くこと

おままごとのジレンマ、リアリティ、平等、書くこと

為末大の『熟達論』(新潮社)を読んでいた。
以下の箇所が私的に示唆深かった。

自分の感覚では、ここで例示されたごっこ遊びの「相反する姿勢」は「遊び」にとどまらない。もっと広く、社会性の話だと思う。たとえば何かしら書類と向き合うとき、「こんな紙っぺらになんの意味があるんだ」と疑いだすと、むなしくてやる気が起きない。かといって、「この書類を落としたら人生が終わる!」と気負い過ぎてもプレッシャーで作業

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あーびっくりした

あーびっくりした

前回(金のインゴット、ほんものとにせもの、一回性と複数性、あと挨拶だいじ)のつづき、みたいなものを書こうと思う。かんたんに。ちょこちょこっと、メモ程度に。適当に。(そう言い聞かせないとはじめられない)。

2月のはじめ、以下の記事を読んだ。

きょうは3月7日(木)。時間が経ってしまったけれど、この1ヶ月なんとなく頭の片隅に渦巻いていたもの。

このあたり、前回の記事で引用した長田弘の「戦争という

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金のインゴット、ほんものとにせもの、一回性と複数性、あと挨拶だいじ

金のインゴット、ほんものとにせもの、一回性と複数性、あと挨拶だいじ

2024年1月1日(月)

部屋の整理をしていたら、11月の文学フリマで吉川浩満さんから「金のインゴットです」と手渡されたオマケが出てきた。謎の購入特典。適当に「おお、うれしい!」などとリアクションして受け取ったものの、これがなにを意味するのかわからずにいた。小さな金のインゴット。まさか本物の金ではあるまいし……。まあいいやと放り出して、そのうちに忘れていた。

まじまじ眺めると、「FINE GO

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ながい緩慢な腐食

ながい緩慢な腐食

連日、起床時に泣いている。なんでか知らん。眠りのなかでやけにかなしいことが起こる。漠然と、起きぬけのかなしい気分をひきずりながら一日を過ごす。目の奥から喉のあたりにかけて、すこしひりつく感覚も残る。あるいは体のどこか、わずかな部分に、痺れるようなふるえるようなものが居座る。昼の陽射しを浴びているうちにやがて収まる(雨の日は収まりづらい)。そしてまた眠りに就き、朝を迎えるとふるえている。ちいかわみた

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現実との拮抗力、「感動」の基本構造、生きてるって実感

現実との拮抗力、「感動」の基本構造、生きてるって実感

 動物行動学者の日髙敏隆と竹内久美子は対談集『もっとウソを!』(文藝春秋, 1997)の中で,「どんな大理論でも必ず修正されたり覆されたり,もっといい見方が出てきて『ウソ』になる可能性がある.しかし,その理論が出された時点では正しかった.したがって科学とは,その時点におけるもっともレヴェルの高いウソである」と述べている.
腹痛の「なぜ?」がわかる本 書籍詳細 | 書籍 | 医学書院

気になる

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帰りたい

帰りたい

地球はパンダみたいなかたちです。と言っても、誰も信じないだろう。しかし誰がなんと言おうと自分だけは信じて、まるで真実であるかのように語れば、いや「まるで~あるかのように」ではなく、そのまま自分の生きた真実として語り切ることができれば、それは一個の芸術として完成するのかもしれない。

文学ムック『ことばと Vol.4』(書肆侃侃房)を読みながらぼんやり思った。佐々木敦、千葉雅也、村田沙耶香の鼎談。村

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ここから書き始めるべきだった

ここから書き始めるべきだった

『ビハインド・ザ・カーブ ―地球平面説―』を観た。Netflixで2月14日まで配信されている。地球は球ではなく、平面だと主張する人々を取材したドキュメンタリー映画。両論併記のようなかたちで物理学者や心理学者らの知見も織り交ぜられている。

ヒトの認知は平面に親和的なのよね。著名な平面説支持者、マーク・サージェント氏が海を望む冒頭の場面を観ながら思った。ああ、たしかに見た感じ平らじゃないか。テレビ

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長い余談

長い余談

更新していないと、書き方を忘れてしまう。いっそ忘れてしまいたい気もする。ハナ・ホルカという方が亡くなったらしい。名前を目にして、吹き出してしまった。チェコの方だったか。訃報で笑うなんて、と思いながらもやはりおかしい。ハナ・ホルカさん。これだけを書き残しておきたくなった。数秒の出来事。あとはとりとめのない余談。人の死に対してどう感じたらよいのかも、うっかりすると忘れてしまうような。学びつづけていない

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肯定と否定、自由と不自由、ないはずのもの

肯定と否定、自由と不自由、ないはずのもの

古本屋で「人生を肯定するまなざし」と書いてある背表紙を見かけた。たしか井上ひさしに関する新書だった。中身の話はしないので、ぼんやりした記憶のままつづける。気になったのは、「人生を肯定する」というフレーズ。もともと誰の人生も肯定されているように思う。わざわざしなくても、途方に暮れるほど。わたしたちは、つねにすでに生きてしまっている。気がついたら肯定されていた。

たぶん、人間の価値観は否定や禁止の道

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読みの補助線

読みの補助線

ここんとこ10日くらい、家ではPCを開かなかった。ひさしぶりに部屋でキーボードを打っている。もっぱら電子媒体につけていたメモを紙に変更してみた。アナログの雑味がたのしい。スマホやパソコンを使ったメモは整理に向いている。手書きは混ぜっ返しに向いている。両方をバランスよく使えるといい。切り分ける作業(整理)と、こねる作業(混ぜ混ぜ)。

整理と混ぜっ返しの対比は、「書く」と「しゃべる」の対比でもある。

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オモウマい店、未分化な荒さ、あるいは愛と欲望について

オモウマい店、未分化な荒さ、あるいは愛と欲望について

10月19日(火)

夕飯を食べながら、中京テレビ制作の「ヒューマングルメンタリー オモウマい店」を見ていた(途中から)。茂三郎という蕎麦屋のご主人が、取材に訪れたADの青年を勝手に弟子にする。そしてAD氏もそれを言われるがまま受け入れ、短期間だけ寝食をともにし、弟子として蕎麦打ち修行をする。そういう内容だった。

茂三郎氏のふるまいは表面上とても荒っぽいんだけど、心根はやさしい。前回の記事と紐付

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限りなくはみ出し合うわたしたち

※前回のつづき的な記事。論理としてのまとまりはない(いつもそうだけど)。ひと筆書き。

たぶん、むかしは街全体が公園みたいにだぶついていたのだろう。人々も路上でだぶついていた。テレビにうつる、インドの雑然とした街なかをぼーっと眺めながら思った。ぜんぶが公園みたいで、きっと数十年前の東京もこのようにぐちゃっとしていたにちがいない。わたしの祖父母世代が若かったころ。

父方の祖母は、知らない人でも平気

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