日記435 2017.12.20
池袋。喫茶店でカフェオレ。
クリスマスだねーという感じの店内。ひとくち飲みかけを撮る。
ほんで、おなじものをふたたび撮る。
どっちの写真がいいかなーとまよって、いいやっと両方とも載せてしまう。さいきんの気分かもしれない。いらない取捨選択をじぶんにたくさん課していた。両方でいいじゃん。矛盾した感情があれば、それをそのままことばにする。hate or love. どちらかを隠して、いちいち論理的にととのえておく必要はない。おなじことを、べつのアングルから幾度も読み替える。対立するものを、両側から眺めている。好きなものがたくさんある。欲張りなのかもしれない。ときめきは、節操がないね。
ただし、順番はある。love or hate. すべてを同時的に表現することはできない。身体はひとつ。選べることばも、ひとつ。ひとつの時間軸に浮かぶ、この空間上で生きている。たいせつなのは、取捨選択ではない。ぜんぶ、あっていい。そのうえでつけるべくは優先順位。長らくわたしは直線的な論理にしばられていたけれど、論理で思考してはとりこぼすものがあまりにも多い。ひとはなにかひとつを選んだからといって、それ以外を完全に捨てているわけではない。「他人のもつ優先順位」を見極めるようにしている。このひとにとっては、なにが先で、なにがあとか。もちろん、じぶんがつけるべき優先順位も。
生きるの大好き冬のはじめが春に似て
池田澄子さんの、俳句。この句がほんとうに好き。春に似た、冬のはじめがある。そして大好きの裏には、大嫌いがある。生きることの裏には、死ぬことがある。季節ははじまり、やがておわる。この句は、そのすべてをふくんでいるとおもう。そのなかで、池田さんが優先順位をつけ、俳句として表出し、かたちにしたことばが「生きるの大好き冬のはじめが春に似て」だった。
「死ぬ」という表現よりも、「生きる」が先にやってくる。「大嫌い」よりも「大好き」が先で、「春」よりも「冬のはじめ」が先にきて、その冬の先触れが「春に似て」いた。この感性が、たまらない。
語らず裏にまわしたものを、なにも殺さない俳句だとおもう。生、死、大好き、大嫌い、冬、春、はじめ、おわり、すべてが生きている。そして、裏っかわの正反対にあるようなものたちは、ほんとうはとても似ているのかもしれない。隣接している。冬のおわりに春がくるように。そんな俳句であるように、わたしには読めました。
「死んだひとがこの世をつくった」と、よくわたしは言う。ひとがいる時間の裏には、いない時間がある。いなくなった時間。生者の領分があり、死者の領分がある。ひとと会う時間の裏には、会わない時間がある。「いる時間」だけではなく「いない時間」まで、ひとしくたいせつにした結果としてたぶん、ひとと会えるのだとおもう。「ある」「ない」、それぞれのことばの領分をわきまえつつ。
2017年、12月20日。
春に似た冬の日。
にゃん