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日記696 書評欄の感想

7月14日(日)

日曜日は新聞の書評欄を読む。もはや新聞をとる家庭はめずらしいのかもしれない。祖母がまいにち懸命に読んでいる。「あたしの目の黒いうちはやめないの」と言ってきかない。端から指でたどりながら何時間もかけてぜんぶ目を走らせ、ぜんぶ忘れる。

あとで「新聞にこんなこと書いてあったよね」と話しかけても、祖母は「そう?そんなことあった?」とふしぎそうに首をかしげる。これはこれで老後の贅沢というか、豪快でけっこうなことだと思う。忘却する贅沢。

日曜日の書評欄だけ、わたしはまともに読む。書評はどの新聞でも興味をもって読める。図書館で書評欄を片っ端からつまみ読むこともある。祖母が読む新聞はむかしから読売。だから読売新聞の書評は欠かさず読んでいる。

さて、まず目にとまったのは中尾隆聖さんの『声優という生き方』(イースト新書Q)。バイキンマンやフリーザの声などで馴染みがある。中国文化学者、加藤徹さんによる評。「オーディションは落ちて当たり前(キャスティングはアンサンブルで、似た声質の人は選ばれない)」「役者はみんなピースをもって現場や稽古場にやってくる」という部分を受けて、加藤さんはこう続ける。

なるほど。新聞の書評欄もアンサンブルなのだから、自分が推薦した本が取り上げられなくても自信を失う必要はないのだ。読者の最後のピースがはまる瞬間こそが大事なのだ。

なるほど。ご苦労がおありなのだなと思う。書評のこうした、一冊の本からすこし飛躍する部分が好きだ。その本に自分の本音を仮託するような。本から響いた音が評者から漏れ出すとき。本の音。悪くいえば愚痴っぽいところ。

書評欄はそう、アンサンブルでもある。
ひとつながりに読むと見えてくるものもある、のかも。

似鳥鶏著『育休刑事』(幻冬舎)の評にもちょっとした愚痴があらわれる。評者は中世史学者の本郷恵子さん。物語の主人公、春風巡査部長の考えとコントラストをつけるように「亭主」(同じく中世史が専門の本郷和人さん)へ言及する。

妻の沙樹さんは産後3か月でフルタイム勤務に復帰し、管理職として残業や休日出勤もこなしている。せめて家にいる間は休んでもらいたい。家事なんかやらせたら、俺は鬼畜だと思う。そうそう、そうなのよ、その通りなんだけど、それがわかって、実行できる男はなかなかいないのよ。うちの亭主なんかひどかったわよ。

「そうそう」からの勢いのつけ方がいい。「そうなのよ」「いないのよ」と繰り返す「のよ」の弾んだフットワークで間合いをとり、さいごの「わよ」へ向かう踏み込みで体重を乗せて刺しにいく。小気味いいリズムのスリーステップ。この筆運び。「俺は」という一人称の直後に女性的なことばづかいで立ち位置を急変させるところも巧みに思う。

評の末尾もなんだか「亭主」の立つ瀬がない感じがした。

家事・育児・仕事・パートナーへの配慮など、複雑かつ微妙なオペレーションをこなすためのガイドブックとしても好適。うちの息子にも読ませます。

「亭主」を飛ばして息子へ。もう過ぎたことへのあきらめと許しと甘噛みが交錯するような「うちの息子にも読ませます」。新聞紙上で軽くつねっても大丈夫な程度には仲のいいご夫婦なのだと思う。私情と本の内容と社会の変化をいい塩梅にマッチさせた楽しい書評だった。

今週の読売でもっとも個人的に刺さった記事は藤原辰史さんによる、ジョアオ・ビール著『ヴィータ 遺棄された者たちの生』(みすず書房)評。さいごの「魅力」に言及するまで淡々と内容を紹介していき、〆の一行で「さて」とくる。

 そして本書最大の魅力は、カタリナが紡いだ「辞書」と呼ぶ19巻に及ぶ詩のような言葉のうち、遺棄を免れたもの全てが最後の章で紹介され、写真家が撮った澄んだ目の彼女の横顔とともに掲載されているところだ。「生きているのに死んでいる」「良い実を結ばない木はみな切り倒されて/火に投げ込まれる」。さて、「狂っている」のはどちらか。

この本は図書館で借りてぱらぱらと見た。「どちらか」という投げかけはもっともらしい。かっこいい。痺れる。憧れる。社会の構図を反転させる格好で鮮烈に〆ている。しかし「どちらか」二者択一は危ういとも思う。大きな切り口からこぼれ落ちる時間を拾いたい。社会問題としてよりも、わたしはたぶんミクロで静的な見方をしがちなせいだ。カタリナの時間は、カタリナの時間として読みたい。そうであるほかなかった一者の、閉じた物語がある。もちろん本の内容はそれ以上の波紋を投げる。読み切れずに途中で返却した。また読みたい。

そして今週とりあげられた本のうち、もっとも気になったのは友田とん著『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する1』(代わりに読む人)だった。評者は翻訳家の岸本佐知子さん。タイトルからもう何だかわからない。「代わりに読む人」とは、友田さんがひとりで立ち上げた出版レーベルらしい。

とうぜん書評もこう始まる。「何だかよくわからないタイトルだが、大丈夫」と。つづけて「なにせ作者にもわかっていないのだから」という。ひとりくらいわかる人がいてほしかったです。「わかりたい」希望は冒頭の二文で粉砕される。でもみんなわからないのなら、おっしゃる通りむしろ大丈夫かと呑気さがわく。

わたしは読書を「わかる」ためにしない。もちろん読んで参考になることはたくさんある。しかし、読んで迷いこむ効果のほうにわたしは価値を置きたいと思う。岸本さんの評では、“答え合わせ”ではない「脱線することの豊かさ」が説かれる。人はつい本筋とは関係のないほうへ誘惑されてゆく。アフリカからふらふら地球を踏破してきたわたしたちはきっと、ふらふらしたい生き物だから。

もしかしたら、セルバンテスの『ドン・キホーテ』を地で行くような試みなのだろうか。騎士道物語のことばを信じきった郷士アロンソ・キハーノは、騎士ドン・キホーテと名乗って冒険へ繰り出す。そこから書物の世界と現実の世界を書物として混成させる……みたいな小説だったと思う。

パリのガイドブックは、東京で読めばフィクションになる。パリと東京は別個の場所。だが、『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する1』という本のタイトルからそんな物分かりのよさは微塵も感じない。「闊歩する」と言い張る。闊歩するのだ。できるのだ。つまりこれは、フィクションの世界にあえて迷い込んで現実を彷徨する実践の書といえる。のでは。

虚実の境界を揺るがす。ノーベル文学賞級の発想である可能性も否めない。かどうかは知らないが、合法的な現実からの脱線方法であることは確かだ。このぐらいの物分かりの悪さをわたしも身につけるべきだと思う。物分かりの悪さが、人生の豊かさにつながることもある。とりあえず、ベネズエラあたりのガイドブックを熟読しながら東京を闊歩してみようかしらん……。






にゃん