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日記682 だからいつもヘラヘラ笑っている

祖父や祖母が亡くなった報せを受けたときの、親のようすを目の当たりにしていた。その瞬間の、父母の感情の流れ方をよく思い返す。日頃は見えない根源的な素形の姿が現れる。それは自分を知るための手がかりとして大きなものだと思う。なんだかんだで親は自分の似姿でもある。

母方の祖母と、父方の祖父はもういなくなった。そのとき父と母は、それぞれに対称的な反応をした。父は夏休みの最中だったせいもあって、苛立っていた。まるで人身事故で電車が遅延して駅員さんを怒鳴りつける乗客のようだった。しばらくその印象が強烈で、自己中心的な人だと思っていた。いまは、もう少しちがう感慨を抱いている。

母は電話で一報を受け、その場で泣き崩れた。引いてしまうくらい泣いていた。心配になった。情をそのまま身体で表現する人だった。巻き起こる最大瞬間風速に煽られるまま、なんら抵抗なく飛ばされる自分を飛ばされるがまま外に排出していたような。抑えない。自分のことも先のことも考えない。かなしいだけ。いまのそのままの時点を素直に表していたように思う。

わたしはどちらかといえば父に似ている。素直ではない。別れの手続きがひと通り済んで、お墓からの帰路、悟られないほど静かに泣いていたあの横顔に似ている。顔を上げたまま頬を拭いもせずに歩きだして、かなしい素振りなんかひとつも見せなかった。そこには一本の細い筋が見えた。まず筋道をつけ、仕事を終えてから、愛おしむようにそっと感情を残す人なのだと思う。情をあらわす順番は、いちばん最後にまわす。

人にはそれぞれの感情の流路がある。あくまでイメージの話だけれど「流れる道筋」があると考えてみる。母はたぶん、大きな塊が洪水のようにあふれだして、ものすごい速度で流すことのできる人。その瞬間に身を任せられる。広い流域がある。そして父は、濃いめの水割りを幾度も口へ運ぶような手付きで少しずつ流していく。ちびりちびり。自分なりの希釈をしながら、細く長い流路をたどり、湛えた張力からささやかにあふれる。

直情的な熱っぽさと、時間のかかる冷っこさ。

わたしはつくづく感情が苦手だと思う。感情表現がうまく出来ない。他人の感情を浴びることも極力、忌避している。画面越しでも苦手だ。強い感情は伝染する。おそらく人並み以上に伝染しやすい。自分のものではない感情に長くとらわれてしまう。あまりにもナイーブなのだ。赤ちゃんに泣かれても切なくて切なくて胸が痛むほど。

だからいつもヘラヘラ笑っている。バカのひとつ覚えだ。反射的に笑う。笑えば距離をおける。それは拒むことではない。浴びたものは長い時間、胸に留め置かれる。「笑い」には感情の白刃取りみたいな機能がある。串刺しにならぬよう喉元で寸止めして徐々にじんわり身体へ馴染ませる加工をする。そのためには、多くのことばが必要になる。根に持つのではなく、独りで消化する方途として。

ちびちびやる。それがいい。『文明の恐怖に直面したら読む本』(Pヴァイン)の中で、余談として会田誠の酒の呑み方が語られていた。彼は酒を注いでから、しばらく置くらしい。すぐに呑まない。わたしもそうやって酒を呑んでいる。影響ではない。意識していなかったけど、たぶん始めから。ひとりで芋焼酎のお湯割りをつくって、しばらくべつのことをする。ごく自然になぜか。ちびちびやりたいんだ、いつまでもさ。管を巻いて。わたしも父も、酒呑みだった。

さいきん、自宅では禁酒していた。ここにもそう書いたと思う。しかし3月から解禁している。とはいえさほど呑まない。少しずつ、少しだけ。人の酒の呑み方と、感情の流し方は似ているのかもしれない。そんなわけないか。でもそう仮定してみるのはおもしろいかも。

理不尽な怒りも、とつぜんの哀しみも、過去の楽しみも喜びもしばらく胸に置き放される。無造作にそのままごろんと。勝手に積まれていく。部屋に積んでいる大量の本みたいに。それを日々、喉を下る酒のひりつきを確かめながら、少しずつ呑み下す。心拍数を軽く上げて、黒霧のパックを慎重に傾ける。入れすぎないように。感謝するとき胸に添える右手にも似た柔らかな手付きでそうっと。呑みすぎると手が震えるから。



ことしは花見の予定がない。
そのことを思いのほかうれしく感じている。




にゃん