見出し画像

鶴舞に染まったこの俺を慰めるヤツはもういない

1.

 2023年9月3日(日曜)の営業をもって鶴舞駅近くにあるメイドカフェ「SecretChamber」が閉店した。

 今、こうして筆を執っているわけだが、たかが6枚目程度のカードで偉そうに何かを語るのは烏滸がましいのではと執筆を迷った。しかし、それでもこの複雑な胸中を文章にして認めておきたい。

 このような言い方は不適切かもしれないが他に適切な表現が思いつかないので敢えて述べれば、巷間、コンカフェが殷賑を極める一方、メイドカフェ、とりわけクラシカルなメイドカフェは今や「絶滅危惧種」である(本稿ではメイドカフェとコンカフェを明確に区別する立場を採る)。その一角を成す「SecretChamber」がこの度15年の歴史に幕を閉じることとなった。

 メイドカフェ乃至コンカフェ界隈の目まぐるしく変わる情勢には齢40も超えるとついていけなくなる。こうやって歳を重ね、「おじさん」になってゆくのだろう(既におじさんなのであるが)。

たいへん豪華なラムチョップ。ボリュームも大満足。
何を食べても美味しい。料理も一級品であった。一切の手抜きはない。

2.

 さて、「SecretChamber」がオタクを含め、ここまで多くの人々に支持される理由は何だろうか。オタクではない方ももしかしたら読んでおられるかもしれないので述べてみたい。

 お淑やかで個性的なメイドさん、彼女らの優雅な所作、ロングスカートのメイド衣装、美味しい紅茶に料理やお菓子、彼女らの如才の無い応対と他愛のない会話、ゆったりとした静かな時間、精緻を凝らした内装等、長所は枚挙に暇がない。
 何より、グイグイ来るのではなく控えめ、かといって放置されるわけではない絶妙な距離感を心得たメイドさんが提供してくれるあの空間は最高に居心地が良い。しかも、日や時間によってメイドさん自体も変わり、また、同じメイドさんであってもその都度話す内容もランダムであるから、ご帰宅する度にアドホックな楽しみもある。そのため、何度ご帰宅しても飽きが来ない。

 これらの長所は別個独立して存在するのではなく、互いに併さって有機的に関連し、統括する関係にある。この魅力は一言で容易に表現できるものではなく、「SecretChamber」の長所は「SecretChamber」だからとしか言いようがない。
 ここには言語では説明のつかない決定的かつ超越的な「何か」がある。

 確かに、メイドさんや内装は公式サイトやSNSなどで閲覧でき、紅茶や料理なども実際口にしなくとも画像や口コミで美味しいんだろうなと予想はつく。そして、凡そのことは分かったとしてブラウザを閉じることもできる。
 しかし、それでは決して得られることのない特別な魅力が「SecretChamber」をはじめメイドカフェにはある。コンカフェ乃至メイドカフェが立ち並ぶ大須からやや離れた鶴舞に実際行ってみる、そして、店内に身を置くことーーー身体性ーーーが必要なのである。労を惜しんでいては何も得られない。

 筆者を含め「SecretChamber」に惹かれる者はこの形而上の問題とも言える「何か」を究明しようと通っていたのかもしれない。最早、宿痾と言ってもよかろう。

 何にせよ、単純には言語化できないような「過剰性」や「ノイズ」のようなものを無闇矢鱈に排除すべきではない。コスパやタイパなどと言っていては到底味わうことのできない魅力をメイドカフェは持っている。
 全てにおいて合理的な選択は人生においては不合理ではなかろうか。

バタフライピーのアイスティー。当然紅茶にも力を入れている。
暑い夏はクリームソーダ。色の違う4種類の味があった。

3.

 前記の通り、各所でコンカフェが席巻するようになっている。大須だけでもおよそ70店舗にも上るという。何故ここまで隆盛を極めているのか。もちろん需要があったからであるが、問題はなぜ需要が生まれたかである。

 アイデンティティの確立を約束してくれたかつての文化やイデオロギーは今や不在である。この場合、他者との関係で自己を形成してゆくことが代替手段としての本来的なあり方の筈である。つまり、自己と他者とが相互に「あなたがあなたとして眼差されなければならない」
 ところが、同世代ですら共通前提ーーー普遍的な共通言語や認識ーーーが失われつつある。そのため、相手が何者であるかを容易に把握できない。そして、その反射的効果として必然的に自分の正体を掴むことが困難となり、この事が若い世代をはじめ我々に実存的不安を齎してもいる。

 アニメ一つとっても多種多様に過ぎ、アニオタ同士で容易にコミニュケーションが図れない。コミュニケーションのためにはなるだけ多くのアニメを消費しなければならず、そのためアニメを2倍速で視聴することとなる。

 メイドカフェにおいてもかつてはオタク同士初対面でも語り合えたものだ。しかし、メイドカフェ以外にコンカフェなる概念も誕生し、現在は凡ゆる店舗形態が錯綜している状況にある。アニメと同様、ここでも共通言語・認識が不成立となっている。

 若者をはじめとする昨今の過剰な承認欲求傾向からも分かるように、このような実存的不安を解消するためには、脳神経に直結するような強く、分かりやすい刺激しかこの不安を解消し得ないのかもしれない。
 「トー横」にいるホストに貢ぐ少女は貢いだ金額が自分の価値と言うが、「金額」や「容姿」などたいへん分かりやすい価値観が支配しつつある。これらは何も「トー横」、「グリ下」や「ドン横」界隈に限ったことではあるまい。

 かかる状況の下では、掴みどころのない不思議な魅力を放つメイドカフェよりも分かりやすく強い刺激ーーー即ち、アルコールとキャストとのコミュニケーションーーーを重視するコンカフェが流行るのは必然かもしれない。

好物のサヴァランは嬉しい。
甘味も申し分なし。期間限定のメニューも豊富で飽きない。

4.

 個人的な趣向を言わせて貰えば、「キラキラ✨シャンパンタワー」的なコンカフェがやや苦手である。対象を全て商品化してしまう資本主義の象徴のような気がしてどうも居心地が良くない。もちろん、否定はしない。コンカフェも多種多様であり、ゆったりと呑める緩いコンカフェも存在し、また、あのキラキラした強い刺激が魅力でもあるのは充分に理解できる。とはいえ、どんな業界も次第に資本主義に侵食されてゆくのだろう。メイドカフェも例外ではない。

 資本主義(商品化)はすべてを貨幣の媒介で交換可能にしてしまうプロセスである。全てのモノが持つ本来の「意味」を剥奪し、どこか無機質でかつ無個性なのっぺらぼうにしてしまう。「千と千尋の神隠し」に登場する「カオナシ」は手から自在に砂金を出すが、「金」は無個性である。それ故、人間の個性そのものを表す「カオ」(顔)がない。そして、「カオ」を持たないまま、過剰な消費(暴飲暴食)により暴徒化する。

 あくまで経営だけを考慮すれば、アルコールの提供及びキャストとのコミュニケーション(それに伴うキャスドリ)を重視すれば効率的であっただろう。このくらいは経営の「け」の字も知らないズブの素人の私でも理解できる。
 しかし、「SecretChamber」はこれを拒否することで商品化とそれに伴う徒らな消費に抵抗し、無意味化した対象に「意味」を見出そうとしていたように思える。

 だからこそ一定数のオタクもご主人様、お嬢様として通うのであろう。オタクもそうした無意味なものに「意味」を見出す「フェティシズム」の視線を持っているからだ。これこそがオタクのアイデンティティでもある。

 しかし、資本主義(商品化)の圧倒的とも言える勢力の前では個々の努力では如何ともし難く、とても太刀打ちできない。
 それ故、「SecretChamber」外、所謂クラシカルなメイドカフェは業界特有の生きづらさを不可避的に抱えることとなる。

カワイイお絵描き。この時はいちごフェアが開催されていた。こうした演出も忘れない。
イチゴをイメージしたカクテル。アルコールもお洒落。

5.

 さらに個人的なことをもう一つ。私がたいしてご帰宅できなかった(6枚目)のは2年以上前から患っている鬱病も原因している。しかし、何も疾病だけが要因ではない。鶴舞にはいつでも行けると思いつつ、大須にあるもう一つの贔屓のメイドカフェで酒を呑んでいた。
 要するに、「SecretChamber」に「甘えて」いた。この点は何も言い訳はできない。

 お屋敷のそれに比例して上品なお嬢様・旦那様が多い中、生来の育ちの悪さからテーブルマナーもよく分からず、常日頃紅茶ではなくホッピーなどを呑み、お屋敷よりも赤提灯の立ち呑み屋やら街中華の方が似合う身にとっては些か場違いではと気恥ずかしさを覚えながらも、お屋敷に伺えば暖かく迎えてくれる。 
 「SecretChamber」は引きこもりになりがちな鬱病者にとって社会性を担保してくれる数少ない貴重な場所であった。

 大袈裟だが「SecretChamber」は一旦閉幕を迎え、こうして私は依存先を一つ失うことになった。「自立とは依存しないことではなく、依存先が多いことである」と聞いたことがあるが、なるほど正鵠を射ているかもしれない。

マロンのパフェ。趣味のドールと一緒に。

6.

 さて、長々と述べてきたが、このあたりで締めとしたい。

 メイドカフェを支えるオタクにも苦手なことがある。それは「終わらせる」ことである。
 オタクの語義は多岐に渡るが、それはともかく夢みがちなオタクは「終わらせる」ことが苦手である。好きなコンテンツはいつまでも続いて欲しいと願う。

 同人誌をはじめとする二次創作にも終わりがない。永続的な日常が描かれ、物語の「終わり」が描かれることはない。
 また、推しが卒業したので「他界」すると言いながらも別の推しを新たに探す者も多い。
 良い歳して少年のように夢見がちで、その思想の発露が時として「中2病」と呼ばれてしまう。このようにオタクは「終わらせる」ことに踠き、苦しむ。
 
 即ち、常に「偶有性」(=他にもあり得たのではないか)を模索しているのである。これを克服するためには「必然性」及び「不可能性」(=これでよいのだ、これしかなかったのだ)への回帰が必要となる。
 「SecretChamber」はメイドカフェオタクのために「終わり」があることを教えてくれたのだと「善解」して、各人が自己と折り合いをつけるよう自彊する外ないであろう。

 とはいえ、強調しておきたいのはメイドカフェという日本の文化まで終わる訳ではないということだ。かつて多くあったメイドカフェはブームが去ると同時にその殆どが消えていったが、また新たなメイドカフェが誕生している。コンカフェに比して多くはないが、文化の萌芽は間違いなく実在し続いている。
 消費文化が歴史を刻み、これを承継し続けることーーー。これにより文化の重層性か生成され、消費文化は伝統文化へと昇華するのだろう。
 そして、その時クラシカルメイドカフェは二重の意味でクラシカル(伝統的)
となる。

 さて、歔欷してももはや戻ってこないが、全てが相対化されつつある現代において「SecretChamber」は「意味」を剥奪された対象に「意味」を見出そうとするオタクがオタクのままで過ごせる空間であった。

 「尊くて、おかしがたいこと。清らかでけがれがないこと」。
 「SecretChamber」は名古屋ではオタクの真に「聖域」だったのではなかろうか。


 長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。それから、「SecretChamber」の皆さん、長い間本当にお疲れ様でした。

再開を願って。



飼猫「ワサビ」の話を熱心に聞いてくれたメイドさんがいた。なんでもない会話にどれだけ救われたことだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?