刀ステを初めて見た、薬研藤四郎が好きな一人のオタクの話(追記アリ)

ここに書き散らかしているのはただの所感であり、自分の内面に対する覚書である。まだ混乱している。誰か助けて欲しい。

2020年5月25日、DMMにて舞台刀剣乱舞(刀ステ)の無料配信が始まった。
映画刀剣乱舞は履修していたものの、舞台とミュージカルは全くの未履修で来た。何人かのフォロワーから機会があればぜひと言われていたので、これを機に初めて触れている所である。

現在、
舞台『刀剣乱舞』虚伝 燃ゆる本能寺(初演)
舞台『刀剣乱舞』虚伝 燃ゆる本能寺(再演)
舞台『刀剣乱舞』義伝 暁の独眼竜
舞台『刀剣乱舞』外伝 此の夜らの小田原
までを視聴した。感想についてはついったーで垂れ流したので割愛する。

刀剣乱舞において私の最も入れ込んでいるキャラクターは薬研藤四郎だ。ありがたいことに、元の主絡みで題材として取り上げられやすい面子の中におり、人気も高く様々な媒体で何かしら出番がある。(自分の解釈に合うかどうかについての話はここでは触れない)

舞台刀剣乱舞の虚伝においても、薬研藤四郎は織田信長の刀であったとして出番があるのだが、なんというか、舞台の彼を見た時、映画刀剣乱舞の時にはあまり感じなかったものを感じた。
虚伝の彼は、薬研藤四郎でありながら一人の生身の男にしか見えなかったのである。

不思議な感覚だった。

その他の刀たちは至って普通に刀剣乱舞に出てくるキャラクターとして捉えられているにもかかわらず、薬研藤四郎だけ虚実が混じるような奇妙な感覚があった。……と書くと、正確ではない。

薬研藤四郎として見られないと思いながら、かと言って圧倒的に俳優さんでもないのである。私は刀ステの薬研藤四郎を、今までの私の薬研藤四郎観と統合することができなかったのだ。今まで私の中に育まれてきた薬研藤四郎とは全く異なる、薬研藤四郎(刀ステ)という存在が私の心の中に爆誕した瞬間だったのだと思う。

もしかしたら、違う俳優さんが演じることになったら、これは徐々に収まって行くものなのかもしれない。何度も繰り返し見ることで統合できるのかもしれない。けれど、今の私にとって刀ステの薬研藤四郎は『成人男性の薬研藤四郎』であった。

5年の間に作られていったもの

刀剣乱舞がサービスを開始して5年。もしかすると他の方々も多かれ少なかれそうなのかもしれないが、薬研藤四郎というものを理解しようとした私の中にある薬研藤四郎観は概念的で、多分、外見による影響は余りないと思われる。外見が元の主や逸話に関連している刀剣男士もいる中、薬研藤四郎はそこまでではなかったかなと。(私はショタコンなので、彼の外見を軽視しているわけではない)

その薬研藤四郎観というものは、立ち絵というビジュアルを持ちながらも長らく非常に概念的なものとして私の中にあった。アニメ化してもそれは変わらなかった。作画の差はあれど、薬研藤四郎の見た目はいつだって少年だったからだ。と、これを書いている最中に感じた。

私は二次創作もするが、私にとって二次創作は解釈を纏めるためのものであり、キャラに対して理想と信仰が欲望に負けた結果でもある。結局原作(メディアミックスされている場合、好きになったきっかけとなる作品)のキャラが一番好きなのだ。刀剣乱舞の場合、少年の見た目をした薬研藤四郎がはちゃめちゃ好きなのである。
にもかかわらず、刀ステで刀剣男士を演じるのは美しい肉体美を持った俳優さんたちである。短刀であろうともそれは同じで、寧ろ割れた腹筋などは違和感どころか絶賛ものだし、演技のクオリティに文句は一切ない。

が、(ほとんどの場合)成人男性なのである!

多分ここが私の中で混乱している一番の点で、しかし刀ステの薬研藤四郎も薬研藤四郎なのだ。多分、私はまだ私の中の薬研藤四郎観と統合できていないので、認められてないのだろう。しかし一方で成人男性の薬研藤四郎として圧倒的存在感を持ったまま私の中に入り込んで居座ってもいるのだ。柄まで通ったぞ。

今演じられている俳優さんの薬研藤四郎を、それはそれとして好きになったのではないかと思っているのだが、さて。ここまで書いたものの一切困惑が収まらず困っている。

薬研藤四郎に関してはスペキャ顔が止まらないが、刀ステの刀剣男士の物語、キャラ解釈という側面で新しく好きだなと思えたりして、この先も楽しみである。

以下2020年5月31日追記分

なんだか記事を読んでいただけて感無量なオタクである。ありがとうございます。暖かく見守っていただけているようなのでほっとしました。反面、余りにもまとまりのない記事に申し訳なさと羞恥心が募り、せめて、とその後の混迷を記す次第です。

【舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰】を昨晩見ていたが、誠に残念ながら私事のため『ながら見』せざるを得ずもう一度初めから全部見返したいと言わざるを得ない。が、薬研藤四郎を語る上では(彼は今のところ本能寺以外で目立った出番がないため)問題ないと判断したので追記していこうと思う。

何故刀ステにおいて薬研藤四郎だけに奇妙な違和感を覚えたのかと言われると、最早これは『自分の中に落とし込んだ』薬研藤四郎を信仰していたからだろうと思い始めた。今晩配信される【舞台『刀剣乱舞』慈伝 日日の葉よ散るらむ】を見たらもしかしたら変わるかもしれないので、結論を出すにはまだ早いかもしれないが、この記事は自分のための覚書なので書いておこうと思った次第である。

先の部分で、薬研藤四郎は立ち絵という形のビジュアルを持ちながら非常に概念的な存在として長らく私の中にあった、というようなことを書いた。これをもう少し正しく言葉にすると、『立ち絵や声は存在しているが、薬研藤四郎は実在しない存在』なので、私は薬研藤四郎を概念的な存在をして受け止めていたのだと思う。

元々は一つの形作られたキャラクターでありながら、二次元のキャラクターを解釈する瞬間、それは元のものから切り離され、ある意味で自分だけのものになると思っている(私個人の考え方なので、違う方も勿論いらっしゃることと思う)。そして他の方の二次創作を拝見するときも、自分の中にある薬研藤四郎の概念と合致するところを見ては、そこに『原作のキャラクターっぽさ』を見出して喜んでいるのだろうと思う。全ては頭、あるいは心の中の話なので、例え他媒体による商業展開規模で薬研藤四郎が描かれたとして、そのスタンスは変わるはずがない。

と、思っていた。刀ステを見るまでは。
なにせ映画刀剣乱舞を、刀剣乱舞として楽しめたので。

正直、舞台という媒体の持つ力を甘く見ていたと言わざるを得ない。
当然の話だが舞台という媒体なので、演者(あるいはそのキャラクター)と同じ空間にいるという空気感が半端ないのだ。それは最早ライブビューイングをはじめ、ブルーレイやDVDなどの『映像』として観劇していようが関係ない。

だって、そうでないならば刀ステの薬研藤四郎を見て、『薬研藤四郎が”そこ”に”いる”』なんて感想が出てくるはずはないからだ。

薬研藤四郎にだけこの奇妙な、『成人男性の薬研藤四郎』という感覚を覚えたのは、薬研藤四郎だけ概念化が進んでいた為ではないか、と思う。他のキャラクター(特に短刀達)は『凄い! 完全に○○』のような感想だったためだ。

繰り返しになるが演者さんは軒並み声の抑揚や発声の仕方などもゲームに寄っていて、これは映画刀剣乱舞でも同じように思った部分でもあるのだが、素晴らしいのである。こんな曖昧な感想でも、多分ゲーム刀剣乱舞で声を聴いている人ならば分かって下さるのではないだろうか。そうでない方も、ゲームの彼らの声を聞くことがあればこの言い方でも問題なく通じる気がしている。

そう、刀ステの薬研藤四郎。彼は、あの姿で『実在する』のである。

なんということだろうか。これが舞台の持つ『力』なのか。今のところ完全にこの『力』に圧倒されてしまっているのが、私という一人のオタクなのだと思う。

2.5次元? とんでもない。完全に2次元とは別でありながら圧倒的に3次元ですほんとうにありがとうございました。
薬研藤四郎が3次元で出力された結果が刀ステですねこれは。

これが薬研藤四郎が好きなオタクが刀ステの薬研藤四郎を『見た』時に起こった、心の中の混迷の(おそらく)全貌である。言い過ぎかもしれないが今のところそうである。

舞台観劇経験が全くないわけではない。が、漫画、アニメ、ゲーム原作の舞台化、2.5次元化の文化に触れてこなかったので、新しい文化や概念に触れたことによる驚きが凄まじかったのだろうと思う。強く好むキャラクターがいる状態だったので尚の事。

今のところ同じ方が演じられている薬研藤四郎しか知らないので、今後違う方が演じられたときにどうなるのか、今から戦々恐々としている。オタクに安寧などないのか。

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