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脊髄反射と熟慮

高校生3年生の頃、「一人を好むけれど独りを嫌がる若者たち」という小論文を書いた。とある大学のAO入試用に書いたその小論文は、教授たちに大いに面白がってもらえたらしく、なかなかの高倍率だった1次試験を突破した。結局、2次試験の面接で落ちてしまったのだけれど。

当時、ほぼ9割の友達が携帯(ガラケー)を持っているなか、わたしは親が許さず所有していない稀有な女子高生だった。だからこそ、「持っていることによる関係性」と「持っていないことによる関係性」とを考えるようになったのかもしれない。

高校時代のわたしが危惧していたのは、携帯やパソコンの先に必ずいる人がおざなりにされて、脊髄反射的に言葉を返してしまうことだった。これは、友人たちがメールでのやり取りで加熱しすぎ、絶縁に至ってしまった経験からきている。

知っている相手であるにも関わらず、「目の前にいない」だけで、対面では言わなかっただろうことを言えてしまう人がいることを知った。匿名の相手になると、この傾向はさらに強まるのではないかと思っていた。

さて、実際にどうだろう。Twitterを眺めていると、脊髄反射でしか物事を考えられていないとしか思えない言葉を多く見つけられる。向こう側に人がいることを想像していないのか、しているのに発することができる人なのかはわからないけれど。

「わかった気になっている」だけで、自分の血肉になる思考はおそらく働かせられていないのだろうと思える言葉の数々。怖いのは、その人が「自分は考えて意見を持っている」と思っているかもしれないことだろう。

あなたが発した言葉は、本当にあなたが自分の頭でしっかりと考えた結果生まれたものなのだろうか。瞬間的に判断して、サクサクッと発したその言葉は、本当に思考の結果出てきたものなのだろうか。

「自分の頭で考えられる人」という言葉を、よく見聞きする。時には子育ての場で、時には求人の場で。自分の頭で考えることは、簡単なようでいて難しい。思う・感じることと考えることとは異なる。前者よりも後者の方が難易度は高めだ。誰かの考えに乗っかっている方が楽であり、人は楽な方に流されやすい生き物だからだ。

昔より、もっと多くの人と繋がれるようになった。多くの人の意見や考えに触れられるようになった。それはいいことではあるけれど、危ういことでもある。柔軟性は大切だけれど、巻きつくことができる長いものを探してしまうのでは、自分を明け渡していることと同じだと思うから。

いい面だけを受け取る一方で、わたしはわたしなりの考えを深める。わたしがわたしとして生きていくためにも、「考える」手間を惜しまないようにしたい。


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