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「つらい」は誰にも侵されない

書き上げては下書きに放り込むことを繰り返していた。思考回路がブツ切れで、靄の中にいるみたいだ。小さな虫が頭の中を這いずり回って、回路を食い散らかしているような気がする。ブツン、ブツンと遮断され、スムーズに思考が働かない。リハビリがてらnoteを書き、下書きに送り込む。今日は公開できたらいい。

以前よりも音に弱くなった。特に子どもたちが騒いだりはしゃいだりする声がダメで、母親なのに我が子の声にもダメージを受け続けている。

去年の春ごろまでは兄弟げんかの声だけがストレスを生み出していたように記憶しているけれど、今は話しかけられる声にもダメージを受けてしまう。もっとも、うちの息子たちの「ねえねえ」は大人を疲弊させるレベルの音量と頻度と内容のようだから、わたしがダメージに弱いだけではないらしいけれど。

年末年始、「ねえねえ」攻撃を受けた義母と母は、ふたりとも「疲れた……」と笑顔でげっそりしていた。「これはふだん疲れるのもわかるわあ」とふたりの先輩母に言われ、少し救われる。「これくらい耐えられないの?」と言われたら、わたしの感情は行き場をなくしてしまっただろうから。

母も義母も、「子育ては最終的には母が担うもの」という意識が根強い。夫婦で協力しながらと言いはするけれど、最終的には「ママががんばんなきゃね」と言う。「母だから」という言葉にめっきり弱くなってしまったから、この言葉はわたしを追い詰めるものでしかないのだけれど、「でも大変だと思うよ」の一言があるから、わたしは救われているのだと思う。

「つらい経験をした人ほど、人にやさしくなれる」という。「同じ経験をした人は苦労を分かち合える」という。そうだろうか。

やさしい人は、つらい経験をしてようがしてなかろうが、相手と似た経験をしていようがしてなかろうが、やさしいことに変わりはない。似通った経験がなくても、その分想像力が豊かだ。そして、その想像力を「こうかもしれない」と相手の立場を考えることに使える。

経験したことにより想像力を持てるようになる人はいるから、経験自体が無意味だとは思わないけれど。

ただ、いくらつらい経験をしていても、そのつらさをもってマウンティングしようとする人もいる。「わたしはもっと大変だったんだから、それぐらいのつらさが何なの」というスタンスをとる人だ。こうした人は、自分が一番不幸で一番つらい思いをしていないと気が済まない。

「悲劇の主人公」マウンティングは、世代間、友人間、そして夫婦間でも見られる。「仕事と家事育児のどちらの方が大変か」なんていう議論だって、結局は「自分の方がつらい」と言いたいわけだから。

こうした人には、ただ「つらいね」とうなずいてほしいという願いは通じない。たとえば、わたしが「つらい」と言うとき、それは文字通り「つらい」と言いたいだけで、言った相手のつらさに関して何かを言いたいわけではない。ましてや、相手がつらさを抱えていないだなんてことは思っていない。

ただ、「わたしのつらさ」を聞いてほしかっただけだ。「つらいんだ」と言える相手だと思えたから言っただけだ。けれども、相手によっては「え、そんなの、こっちの方がしんどいのに」と勝手に比較して受け止められる。「みんな」と比較して、「みんなつらいんだよ」と返す人もいるけれど、「つらい」と言ってきた人に対して返すに相応しい言葉ではないように、わたしは思う。


「同じ経験」も厄介で、たとえ「同じ」であっても、受け取る人間が違うのだから、それは「同じ」ではない。にも関わらず、「同じ」だと思ってしまうがために、自分の感じ方や価値観を該当者の総意にしてしまう人は多々いる。

女性の場合、生理のつらさとか、妊娠中のつらさとか、出産の痛みとか、育児の大変さとか。個々で異なるのに、一括りにされることがあるものたちだ。つらさが軽かった人の感じ方が厄介になることが多い。

例えば、母は孫息子たちを見ていて、「自分の子育ては楽なパターンだったのかも」と感じているらしい。けれども、これがもし「わたしは楽な方でラッキーだったのかも」と思えなければ、ただただ疲弊して満足に動けなくなることのあるわたしを否定的に見てしまったり、理解がまったくできなかったりしたかもしれない。

「つわりは病気じゃないんだから」とわたしに言い放った、元パート先の出産経験のある女性は、自分がラッキーなタイプだったことに気づけず、自分の経験だけを基準にしていたのだろう。

そもそも、つらさなんて主観的なものを、他人と比べること自体が間違っている。誰かのつらさよりつらくなければ、そのつらさが偽物になってしまうだなんてことはない。自分がつらいのであれば、そのつらさは本物なのだから、不安に思うことはない。つらさは誰かに侵害されなければいけない感情ではないのだ。

客観的にジャッジして、「もっとつらい人だっているんだから」なんていう言葉を投げかけるのは無責任で、何の意味もない。つらいものはつらい。

「もっとつらい人だっているんだから」「かすり傷程度でガタガタ言っているのは情けないから」という言葉を自分に向けるとき、その言葉が自分自身に発破をかけるためであればいい。けれども、誰かの目を気にして「こんな程度でつらいなんて言えないから」というのであれば、それはかえって傷口を膿ませてしまうのではないかと思う。

自分のつらさを「そうだね、つらいよね」と受け止めたり、「つらいけど、踏ん張れよ」と思ったりしながら、深く息を吸って前に向き直れたらいい。そして、同じように誰かの「つらい」には、「そっか、つらいんだね」とうなずけたらいい。

かくいうわたしはまだまだ不器用で、自分のつらさとの向き合い方は下手なのだけれどね。




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