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「仕方がない」をお守りにする

「まあいっか」が増えていくことを大人だと言ったのは、マンガ「ソラニン」の芽衣子だった。

はじめてソラニンを読んだ二十歳そこそこのわたしはどうだったろう。「まあいっか」と思うことは少なかったような記憶がある。もともと頑固だということもあるかもしれないけれど。

「まあいっか」と思えないから苦しんだこともあったし、「まあいっか」と思えないから味わえた達成感もあったのだと思う。たぶん、きっと。

あれから10年近くが過ぎた今、わたしが身につけたのは「うん、仕方がないね」だ。

自分の努力だけではどうにもならないことがあることを、ここ数年で嫌というほど思い知った。放っておくと考え込み過ぎて鬱まっしぐらになってしまうタイプだから、何度も何度も「仕方がないよ」を言い聞かせる。仕方がない。仕方がなかった。どうしようもなかったんだよ。

相変わらず感情の振り幅は大きくて、お世辞にも手綱を握れているとは言えない。でも、「うん、仕方がないね」はそんなわたしの感情のブレーキになっているように思う。

割り切るのはやっぱり下手だから、どうしようもなかったことを何度も思い出しては、泣きたくなってしまうこともあるのだけれど。女々しいなあと思いながら、そのたびに「仕方がないんだよ」と言い聞かせる。ここで立ち止まってめそめそしていても、もうどうにもならないのだから。

諦観は、生きていくうえで必要なものなのだろう。譲れない部分は大切にしながら、自分ではどうにもできないところに対しては、ありのままを受け入れる。いい意味で、諦める。

うまく手放していかなければ、わたしたちは前に進めない。忘れなくてもいいけれど、抱えつづけていては足枷にしかならないものもたくさん、たくさんあるのだ。

昨年、悲しいことがあった。「吹っ切れた?」と訊かれれば、答えはイエスでノーだ。今でもやっぱり思い出してしまうし、「なんで、どうして」と問いたい気持ちはなくならない。

だけど、それでも、わたしはわたしで進まなければならないし、進まなくても時間は勝手に流れていってしまうのだ。

「仕方がなかったんだよ」をお守りに、わたしはもやもやと悲しさを一旦隅に置いておく。前向きになるのは相変わらず下手だけれど、うじうじしてしまう自分も「仕方ない」と受け入れながら、少しでも前に進めたらいい。

正解が出せる問題ばかりではないし、正解を出さなければいけない問題ばかりでもないんだよ。

「仕方がない」とグレーのまま受け入れる。そんなわたしを、十年前のわたしは「格好悪い大人」だと思うだろうか。

「グレーでも、半分後ろ向きでも、いいじゃん」。今のわたしはそう思う。割り切ったり答えを出したりすることは、必ずしも急がなくてもいいんだよ。

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