見出し画像

老害予備軍はそこら中にいる

老害、ということばがある。わたしは、このことばがあまり好きではない。……いや、好きな人の方がきっと少ないかな。「少ないよね?」と思いたい、ネガティブなことばだ。


そもそも、「老害」と呼ばれるような人たちは、歳を重ねて害を放つようになったわけではない人が大半ではないのかな。

他人に対して失礼な言動や価値観を持っている人は、その多くが10代20代から一端を垣間見せていると思っている。

他人に優位性を示さずにはいられなかったり、自分が「弱者」だと認識する人に不遜な態度をとったり。特定の人であろうと不特定の人であろうと、「相手」のことを想像できない・しない人はどの年代にも存在する。

そうした人が、歳を重ねたときに「老害」とされる人になるのだろう。

この中には、若い頃には年長者をバカにしたり、それこそ「老害だ」と揶揄したりしていたタイプの人も多いのではないかな。(「老害」は新しい言葉ではあるけれど)

若い頃は、失礼な言動を「若いから」と周囲から甘くみてもらえていただけで、歳を重ねたら「いい歳のくせしてみっともない」に外からのジャッジがチェンジするのかも。

まあ、若いからといって許されてきた人ばかりではないだろうけれど。むしろ、許されない経験を積み続けられた人は幸いだと思う。一番不幸なパターンは、若い頃には「下だ」と認識した相手にだけ不遜な態度を取っていたため表出せず、歳を取ってから周囲に幅広く人間性が「バレる」ものだろうな。



まあ、中には、歳を重ねる中で高まった社会的地位を自身の価値だとすり替えてしまうことにより、「若い頃はそんな人じゃなかったのになあ」というタイプの人もいるのだろうけれど。でも、これも若い頃から人を序列づけて考える価値観を持っていた人が少なくないのではないかな、と思う。

残念ながら、何歳であっても、女性(特に若い女性)を下に見る男性はいるものだし、介護が必要な高齢者や障がい者への当たりがきつすぎる人はいるものだから。



物事を常に柔軟に考え、他者を想像してみるクセをつけてさえいれば、変わっていく常識を一刀両断にしないと気が済まないといったことにはならないと思う。

たとえば、女性の生き方はこの数十年で様変わりしたけれど、柔軟に捉えて、相手の状況を想像できれば、安易に「赤ちゃんの頃から保育園に入れてかわいそう」だとか「母乳の方がいい」などといった発言は出てこない気がする。

男性だってそうだろう。「自分は仕事一筋できたけれど、今は違う生き方もありなんだよな」と思えれば、自ずと言動は変わるのでは。

別に価値観が変わったからといって、それまでの生き方が否定されるわけではない。それなのに、新しい価値観を「認める」ことで、自分の「今までの生き方が間違っていた」と思わなければいけなくなる気がするのかな。だから、柔軟に考えることを拒否してしまうのかも……なんてことを「想像」してみている。


正しさなんて流動的だし、個々によっても違うのだから、「相手を認める」ことと「自分を否定する」こととはイコールにならないのにね。

わたしはもともと子どもの頃から「正義の人」だったから、自分の中の常識のみで「それは間違ってる」と言い出す危険性が高いと自覚している。これだって、歳を重ねてしまったら立派な老害だ。

そうした自覚があるからこそ、相手の状況や心情を想像して、一度立ち止まって考えるクセをつけ続けたいと思っている。


#エッセイ #コラム #老害 #わたしのこと #考えていること #思っていること #雑記

お読みいただきありがとうございます。サポートいただけました暁には、金銭に直結しない創作・書きたいことを書き続ける励みにさせていただきます。