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あの日、母に「泥船」だと言ってしまった

長らく専業主婦だった母が働きに出始めたのは、わたしが中学に入る頃のこと。

それまで、母はわたしと妹が学校に行っている時間を利用して、ホームヘルパーの資格を取りに行ったり、友人の紹介で知り合った老夫婦の家事手伝いに通ったりしていた。

父は「男は仕事、女は家庭」を求めるタイプで、母も異論はなかったらしい。というより、フルタイムの仕事と家庭とを両立できると思えなかったのだと聞いたことがある。

状況が変わったのは、不景気で父の収入が当初の見込みよりも上がらないとわかった頃のこと。家のローンや子どもの教育費を考えると、母に家計を助けてもらった方がいい、となったためだった。

当時、母はホームヘルパーの団体にゆるく所属しながら、老夫婦の家事手伝いに通い続けていた。老夫婦の夫は地元の小児科開業医で、「仕事を探している」と聞いて「うちで働いたらどうだ」と持ちかけてくれたらしい。家事手伝いにもこれまでどおり通えて、収入も増やせる。いい話だった。

一方、ホームヘルパーの団体は、当時NPO法人のような何らかの認定組織ではなく、今後どのようになっていくのか未知数だった。その団体からも、本腰を入れて所属しないかという打診があったらしい。

迷った母は、なぜか当時まだ小学六年生だったわたしに、どちらに行くべきかアドバイスを求めた。わたしは、「団体はまだ仕事になるかどうかわからない泥舟みたいなものだから、病院の方がいいんじゃないか」と言った。お金のために働くのだから、未知数より安定をとった方がいいのでは、と判断したのだ。

もちろん、小六の娘のアドバイスだけで決断したわけではないだろうが、母は結局わたしの判断どおり、病院を選んだ。パートタイムで、時給が高いわけでもない。午前診と午後診のシフトに沿って、今も勤めつづけている。

一方、ホームヘルパー団体はその後めざましく成長を遂げ、今はNPO法人になっている。仮に母がそちらを選んでいたら、バリバリ働くスタイルになっていただろう。そう、母に聞いたことがある。

ずっと、心のどこかでもやもやしていた。大人になったわたしなら、安定を最優先して選びはしないから。今のわたしなら、「やりたい」「やってみたい」を大切にする。もちろん、お金や安定も大切ではあるのだけれど。

母の可能性を、わたしの発言が狭めたのではないか。母は、もっと広く活躍できる道を歩めたのではないか。

そんな思いを抱いていた。何よりも、今のわたしが、いつ泥舟になるかしれない舟に乗り込んでいるのだから。

帰省したとき、たまたま母とその当時の話になった。母は、「もしも、を考えることはある」と言った。そして、「でも、結果的には今の仕事でよかったんだと思う」とつづけた。

数年前、母は病気を患った。その際、勤務先の病院は勤務体制の変更に柔軟に対応し、休職・復職も快く受け入れてくれたのだそうだ。

「バリバリ働くことが必要な道を選んでいたら、今はもう働けていなかったと思う」復職した母は言う。週に2日の勤務でもいいから戻っておいで、なんていう今の働き方を、恐らくNPO法人では選べなかっただろう、と。

人生の選択の正解は、最後までわからない。成長を遂げるNPO法人の知らせを耳にしたとき、母は過去の判断を悔いることがあったのかもしれない。たとえ悔いたことがあったとしても、娘のわたしには言わなかっただろうし、これからも言わないだろうけれど。

当時のわたしは、わたしなりに真剣に考えてアドバイスをした。だけど、誰かの選択に口を挟むのは怖いなと思っている。最後は本人の自己判断だ。だけど、その人にわたしの言葉がどれだけの影響を及ぼすのか、わたしにはわからないのだから。

あくまでも求められたときにだけ、「わたしなら」という立ち位置でしか、何かを言うことはできない。無責任に「こうした方が」「ああした方が」と言わないようにしたい。そう、思っている。

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