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深く潜り、浮上し、また前進する

久しぶりに小説を書いた。書き上げたことに満足しつつ、果たしてどこかへ届くんだろうかという想いも抱きながら、昨日noteにあげた。

効率性やスピードがとかく重視される世の中において、小説を読むことや書くことは、きっと真逆に位置している。

ノウハウやマニュアル、ハウツー本(やnote)が光を浴びがちなのは、最短距離で目的地や理想郷に辿り着きたいと考えている人が多いからだろう。その一方で、創作は瞬間的に何かを変えたり与えたりするわけではない。特にわたしが書くものは、ゲラゲラ笑える類のものではないから、気持ちを明るくさせる効果もない。

効率性ばかりを重視していると、どんどん薄く薄く心が引き伸ばされていくように感じて、呼吸が苦しくなる。スピードについていくことばかりに意識を向けると、感情は重すぎる荷物にしかならないと感じてしまう。

それでも、ドライになりきることはできない。余計な感情は削ぎ落とせばいいのに、捨てられないせいで常に息切れを起こしやすい状態で走っているような、そんな気がする。

エッセイとは呼べない気がしているnoteや小説を書くことは、疾走中に取りこぼしてしまった自分のかけらを、立ち止まって拾い集めるような作業だ。日常生活や、仕事における「書く」が前進することだとしたら、こうした私的な「書く」は深みに潜ることだと思う。

本当は、浅瀬を全力で走り続けられる方が、より遠くまで行けるのだろう。それでも、わたしは潜らずにはいられない。深いところに沈み込んで、そこにあるものと向き合い、何かを見つける機会がなければ、前に進む力すらなくなってしまうような気がする。


目まぐるしく進むスピードに、この世界で生きていく以上はある程度ついていけなければいけないとは思う。遅いより速いが正義。遅いより速い方が優れている。非効率的なことよりも効率的なことの方が素晴らしい。これらは、何も間違ってはいないし、そうあるに越したことはない。

けれども、人には人の快適なスピードがあることも、また事実だ。走ることが苦手な人が、速い人にくっつけられて無理やり同じスピードで走らされれば、体が悲鳴をあげてしまう。限界以上を続けることは、通常の力すら発揮できなくなる日がくる可能性があるのだ。

かけっこでビリになってしまっても、ほかで挽回することはできるように、その人にはその人の適性があることを、自分にも言い聞かせておきたいと思う。


久しぶりに深く潜って書いた小説を、「いい」と言ってくれた人がいた。とても嬉しい。

わたしを形作るために必要な「書く」は、ここにある。それは決してエネルギッシュな陽の影響を与えられるものではないけれど、立ち止まって、腰掛けて、少し息を整えたくなっている人に届けば報われるな、と思う。

note運営さんに「おすすめ」にもあげていただけたようです。創作であげていただいたのははじめてなので、こちらもとても嬉しかったです。


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