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「当てはめる」ことで失う自由

相変わらず、わたしのメンタルは七転八倒を繰り返している。かろうじて起き上がり続けられているので、八転び九起き。でも七転び八起きとは言えない、そんな感じだ。

「これはあかんやつだなあ」と思いながらも、最終的には浮上してくるので、何だかんだと原因はわからないままだ。原因というか、時として病名というか。

「メンがヘラって」たり、「メンタルがおぼろ豆腐」だったり、「キャパオーバー」だったり、「ジェットコースターメンタル」だったり。そんな言葉で己を説明している。誰にでもなく、自分自身に。

インフルエンザのように、「はい、ウイルス出ました〜、インフルでーす」といえないのが、心の奥ゆかしく面倒なところだなあと思う。かれこれこのメンタルと20年以上付き合ってきているけれど、結局何なのかわからない。

自己判断でHSPだなあとか、内向型寄りだなあとか、これに当てはまるなあ、あれに当てはまるなあとは思うけれど、何らかの診断を受けたことはこれまでに一度もない。

当てはまる名前を見つけることで、得られることはあるのだろうと思う。自分との付き合い方を考えられるようになったり、否定せずに済むようになったり。周囲に説明しやすくなる部分もあるだろう。

ただ、個人的には、何かに当てはめることは、自ら当てはめていってしまう始まりになりそうだなあという思いがある。

「こういう辛さは、これが理由だったんだ」ではなく、「これこれこうだから、わたしはこうなんだ」になりそうなのだ。それは、昔のわたしが「わたしはマジメだから」「精神的に弱いから」と自ら鎖を巻きつけてしまっていたのと同じように。

高校時代に「自分で決めつけすぎてない?」と指摘してくれた人の言葉通り、わたしは自分で自分を当てはめてしまいやすいのかもしれない。

世間一般の「妻だから」「母だから」は聞き流せるのに、自分の中の「〜だから」には簡単に染まってしまう。そして、自分の言葉は他人の言葉よりも強くて重い。まるで呪詛のように、自分で自分を縛ってしまう。


原因を考えること自体は悪いことではないのだけれど、当てはまるものを探す必要はないのかもしれない。あくまでも、わたしの場合は。

何かに当てはめて視野を曇らせるよりも、クリアな目で自分自身を見つめた方が、きっと自由でいられるし、ずっとわたしらしくいられるように思えるのだ。


そして、それは子どもに対してもそう思う。「長男だから」「次男だから」「男の子だから」「早生まれだから」と何かと「だから」を投げかけられるのだけれど、そこに当てはめて考えるよりも、目の前の子ども本人をそのまんま見つめた方がいい。その結果、何か「当てはまるのであれば、それはそれ、適した対応を学べばいい。

ある名前に当てはめることは、同時に「それ以外」を奪っていく可能性があることなのだと思うのだ。

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