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やっぱり最後に選びたいのは讃歌なんだ

世の中には、気持ちを塞いでしまいたくなるニュースが多く溢れている。

余裕のない大人たち、そんな大人たちの影響を多かれ少なかれ受けて育っていくのであろう子どもたち。

持たざる者だと思っている者は持っていると思われる者を叩き、恨み、粗探しをして束の間の優越感に浸る。

隣の芝生は青い。だから、きっと自分の芝生だってそれなりに青いのに、すべての芝に火をつけて焼き尽くしてしまおうとしている人たち。

悪意が渦巻く。悪い感情が孕むエネルギーは大きいから、油断しているとつい飲み込まれて、未来に悲観的になってしまう。

生まれたときから明るい未来の話なんて聞いたことがなかった。少なくとも、周りの大人たちからは。

ずっと「不景気なんだ」と親やニュースから聞かされていた。「大人になることはつらいことだ」と思い込まされ続けてきた。自然破壊だとか、温暖化だとか、いつこの国に起こるとも知れぬ戦争とか。漠然とした悪いものに触れながら、今日まで過ごしてきたように思う。

厭世的なコンテンツや、皮肉った表現に触れることも多くて、それは単にわたしがたまたま好んで触れただけではあるのだけれど、「ああ、世の中って」と儚むには十分な作品たちだった。そのときのわたしにとっては、そうしたコンテンツが恐らく必要だったのだとも思っている。

それでも、わたしはどこかでバカみたいに光を信じている節がある。理由はわからない。そうやって育ててもらえたラッキーガールなのかもしれないし、単純にわたしの根っこが生まれついて性善説に生えているからなのかもしれない。ネガティブなくせして、最後はハッピーエンドを信じているのだ、バカの一つ覚えみたいに、ずっとずっと。

人が美しい面ばかりではないことも知っているし、どうしようもない悪意があることも理解はしている。それでも、どこかに善があるのではないかと思ってしまうし、あってほしいとも思っている。祈りのようでいて、妄信にも近い危うさがあるわたしのこの感情は、子どもの頃に抱いていたシンプルな好意とほぼ同じものだ。悪い人がこの世にいるなんて知らなかった頃のわたしの、人全般に対する単純すぎる「いい人だろう」という視点。

時々、皮肉屋かつ大人ぶったわたしが「バカかよ」と言いもするのだけれど、「でもね、きっと、きっと」と子どものままのわたしが首を振る。性悪説を断固として受け入れない頑固なわたしが、ずっとわたしのなかに鎮座しているのだ。

どうせ歌うのなら、人生讃歌がいい。世界は美しいものだと思っていたい。未来には希望があるのだと信じていたい。現実から目を逸らして信じ続けることはただの逃避で何の変化も成長も生まないけれど、せっかく大人になったのだから、この先を生きていくのなら美しいものを増やせるひとりになりたい。

したり顔して諦めたり否定したりするよりも、バカみたいに向き合って肯定したい。そんな人たちと出会いたいし、笑い合ったり語り合ったりしたいと思う。


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