見出し画像

理想は、ふんわりがいい

何かをはじめるとき、そこには何かしらの理想がある。

築きたい家庭像、描いていた夫婦関係や親子関係、自分のキャリア。確固たるものではなくとも、何となくの理想を抱いている人の方が多いように思う。

むしろ、理想はぼんやりしているくらいの方がいいのかもしれない。

友人の子どもが、担任の一存で作文を発表するはずだったところを別の子に変えられたと聞いた。聞いただけだから一方的な判断はできないけれど、直接彼女にも「内容がそぐわないと思ったので」といったそ内容の伝達があったのだそうだ。

教師には教師の理想の子ども像やクラス像があるのだろう。そして、そこで教鞭をとる理想の自分も。

話を聞いて、怖いなと思った。自分だけの理想を追い求めるのは構わないけれど、他人が関わる事柄の場合は、時に相手をコントロールしないと成し得ない。

それは目の前の相手ときちんと向き合わないことになる。都合のいい像に相手を当てはめるため、時に強制し、時に誘導する。特に、子ども相手にそれをするのはいかがなものなのかと思った。

我が家には、統率不可能なヤンチャな子どもがふたりいる。何となく描いていた理想像のなかにまったく存在していなかったことばかりをしでかしていて、疲弊してばかりだ。

強権的になれば、もしかすると理想に近づけるのかもしれない。だけど、それは果たして健全なのかといわれれば、NOだ。……まあ、我が家の場合は子どもが手ごわすぎるから、どのみち無理ゲーかもしれないけれど。

理想のイメージが具体的になればなるほど、柔軟性が失われて頑なになってしまうことがあるのだろう。特にわたしは頑固だから、自分で自分の首を絞めかねない。

理想は、ふんわりしていていい。思い描くときに楽しさを感じられるゆとりがある、そんなものがいい。

お読みいただきありがとうございます。サポートいただけました暁には、金銭に直結しない創作・書きたいことを書き続ける励みにさせていただきます。