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わたしの常識、あなたの非常識

お坊さんが実家にくるタイミングで帰省できたため、何年かぶりに法事に同席する。その後、墓参りにも子どもたちを連れてついて行った。霊園は山あいにある。山の緑と空の青さが、見るからに「夏!」といった風情だった。

年に数度法事を行い、定期的に墓参りをする。そんな実家で育った。子どもの頃に触れた体験や習慣は、そのまま本人の価値観や常識になっていく。だから信仰心はないけれどわたしは墓参りに行くし、仏壇にも手を合わせる。すべきだからというより、するのが当たり前だからだ。

一方で、墓参りにほとんど行ったことがない、という知人がいる。遠いから、ではない。非常に近いところにあるにもかかわらず、行く習慣がないそうだ。親に行く習慣がなかったらしく、彼のなかで、墓参りは「面倒くさいもの」「する意味がわからないもの」になっていた。

「常識は18歳までに身につけた偏見のコレクションだ」といったのはアインシュタインで、まさに本当なのだろうなと思う。どのように育ってきたかで、その人の常識は異なる。そして、そのことを自覚していないと、異なる常識のなかで生きている人を「非常識」だと糾弾してしまいかねないのだろう。

親子関係に恵まれて育った人は、親を嫌わざるを得ない体験をしてきた人を親不孝者としか思えないかもしれない。「家族は大切にするものだ」と思える人は、どこかで家族に肯定的な思いを抱ける体験が積めたからだろう。

いくらひとまとめに括れないといったって、異性にコテンパンに嫌な目に遭わされ続けた人は、異性を丸ごと危険視したり敵視したりすることが当たり前の感覚になるかもしれない。そして、それを簡単に「良くないこと」とするのは時に難しい。わたしは「個人を見て判断しようよ」と思うけれど、それだって個人レベルでいい人・ひどい人双方に関われたから思えるようになっただけかもしれないからだ。

墓参りに行ったことがない知人は、母親の実家へ帰省したこともないらしい。そういう親の元で育ったからかはわからないけれど、大人になった今、自分も特に帰省しようと思わないのだという。

わたしはというと、母方の祖父母にできる孝行は「声を聞かせること」と「顔を見せること」だと思ってきたから、大学時代はひとりで会いに行ったこともある。祖父母の誕生日には電話をかけるし、ひ孫である息子たちを連れて会いに行ったこともある。

子どもたちが求めることもあり、ひとり6時間半の距離を運転して大阪の両家実家に年3度帰省もしている。まあ、わたしも少し息抜きをさせてももらえているから、「来てあげているのに」とは思わないけれど。

健康面や経済面で「困った」が発生するまでは、こうしたことが気を使わせない孝行だと思っているけれど、では知人と知人の母は不幸者なのかといったら、やっぱり言い切れるものではないと思っている。

「えー、信じらんない」と反応することは簡単だ。正しさは笠に着やすいから、多勢を味方につけたような気持ちにもなりやすい。特に最近は、正しさでぶん殴るような人が増えていると感じる。しかし、自分サイドこそが正しいだなんてどこまで言い切れたものだろうか。そして、自分が「そうではない側」に行く可能性があることを、なぜそこまで強く信じていられるのだろう。

実家に帰ってきた別の友人は、「やっぱり、ふだんはある程度親と離れているくらいがちょうどいい」といっていた。お盆期間中の今、自分の常識と非常識との境界線が侵害されるストレスを感じている人もいるだろう。ギャップが大きければ大きいほど、つらさも際立つ。

相手を責めず、自分を折らず、どちらが正しいかをいちいちジャッジすることなく、「あー、合わない考え方だなあ」とだけ心のなかで思えばいい。たまにしか会わない相手であれば尚更だ。コミュニケーションが成り立つ相手ならば、「そうは思わない」とだけ伝えてもいいだろう。それは相手との関係性次第だ。

自分の常識は、誰かの非常識かもしれない。自分に正しさの理があると思ってしまいそうになるときほど、一呼吸おくことが必要なのだと思っている。

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