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モノサシの違い

人は割と無責任にあれこれと口出しをする。口を出した本人は無責任だと思っていないことも多く、むしろ善意から口を出しているつもりなのだけれど、だからといって発言に責任をとるわけでも、またとれるわけでもない。

口を出す相手は見知らぬ他人だけではない。むしろ、子どもやパートナーであることも多い。特に子どもへのアドバイスは、そのほとんどが心から子どものためを思ってなされるものだ。わたしも親のひとりだから、その気持ちはわかるし、これからも口出しをしてしまうことがないとは言い切れない。

ブログに以前書いたこともあるのだけれど、わたしは父親に「社会で働くのに向いていない」と何度も言われてきた。結婚して専業主婦になった方がいいだろうと。子ども時代からストレスに弱く、精神的な不調が体調に反映されやすかったから、わたしは(そうだろうな)と素直に受け止めていた。

父だけではない。夫にも「働くの、向いてへんやろな」と言われていた。付き合っていた当時から。夫はわたしが一番精神的に調子を崩していた姿を知っているから、これも「そうなんだろな」と思った。

社会に出て働いている人が、社会の厳しさとわたしの気質とを知っているうえで「向いていない」と評するのなら、それはきっと正しいのだろう、と思っていたのだ。

ただ、わたしは今こうして仕事をしている。父も夫も、そのことについて何も言わない。いや、父は年末年始に話したときに「へえ〜、そんなに仕事してるんか」と意外そうに言っていた。

人間関係の悪さを理由に、就いた仕事を即座に辞めたわたしを見てきた母には、「大したもんやよ」と言われた。せっかく採用された仕事を辞めることにしたとき、母が落胆していたのを知っているから、「まあ何とかやっています」という姿を見せられてよかったなと思う。

父も夫も、自分が経験したものだけを根拠に、「社会」を語っていた。当たり前だ。経験していないことは、意識しなければ見えてこない。意識をして見えてきたところで、実際のところもわからないのだから。

「結婚はいいものだ」「結婚は墓場だ」
「子育ては大変」「子育ては楽しい」
「女の子の方が育てるのが楽」「男の子の方が育てるのが楽」
「フリーランスは自由だ」「会社員の方が安心」

エトセトラ、エトセトラ。

生きていると、それはもうたくさんの経験者から「こうだよ」「ああだよ」と言葉を投げかけられる。

ただ、それらはすべてその人が経験してきたなかで作り上げたモノサシに沿って出てきた言葉にすぎない。当たり前のことなのだけれど、結局は自分で見て聞いて試して判断するほかないのだ。

外野からの発言を参考にするのはいい。けれども、それに縛られて選択肢を狭めてしまったり、苦しんでしまうのはもったいないことだなと思う。

素直に耳を傾けつつ、鵜呑みにしすぎない。相手には相手の、自分には自分のモノサシがあることを覚えておきたい。

アドバイスを受けたときだけではなく、口出しをしたくなるときこそ、相手のモノサシをへし折るような真似をしないよう気をつけなければ、と思っている。

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