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あなたを“あなた”として尊重すること

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。

こう述べたのは福沢諭吉だ。文字通りの意味であり、現代の日本ではその当時のような身分制度は廃止されている。当時とは異なり、義務教育により学ぶ機会だって設けられている。

しかし、個々の意識の中ではどうだろう。マウンティングという言葉からもわかるとおり、他者よりも優位に立ちたい人は、意識的・無意識的問わず存在している。相手よりも自分の方が優れている、勝っている。そのように思うことで、ようやく安心できる自己の価値があるのだろうか。

確かに、誰かから慕われたり尊敬されたりすることは心地のよいものなのだろう。自己顕示欲や自己承認欲求が満たされることもあるのだろう。しかし、だからといって、自分よりも誰かの価値が低い・高いといったことはないはずだ。

セクハラやパワハラが話題になった。ここに、モラハラやDVなど、個人の尊厳を踏みにじるものはすべて、相手のことを自分より下のものとして捉えているからこそ起こることなのだと思う。

世間の流れとしては、昨今女性が声をあげ始めたことから、女性=被害者として捉えられているように思える。現実問題として、女性は男性より一般的に力が弱い存在であることから、被害を受けている間も声をあげにくく、また性的な観点から被害自体にも遭いやすいという特徴もあるだろう。

女性を言いなりにしたり、上から目線で「教えてあげる」立場をとったりすることで満足するような思考を持った男性がいることも事実だ。


しかし、こうした問題は男女間だけの問題ではないと思う。セクハラ問題は、ここにさらに性の問題が絡むため、どうしても男女間の問題、女性蔑視や差別問題に発展しがちなのだと思うのだけれど、この問題は、そもそも自分と他者とを「上か下か」で判断するような思考・価値観が元凶なのだと思うからだ。

先輩後輩、上司と部下。こうした立場上での上下関係は、対人間としての上下関係ではない。年長者と若者との場合、年長者が年の功の分敬われる存在であることを否定はしないけれど、だからといって若者の方が人間として価値が低いわけでは決してない。

ひとつの命として、どんな人間でもその価値は同一だ。立場や年齢はさておいて、自分と同様、他人は誰であっても尊重すべき一個人だ。

そのことが、何だかおざなりになっている人が多いのかもしれない、と思う。そして、おざなりになっている人は、男性であれ女性であれ、いつか誰かに対して何らかしらのハラスメントを起こすリスクを秘めているのではないかと思うのだ。

こうした問題が起こると、どうしても被害者、弱者側の立場に立って意見を述べる人が増える。それは自然な流れではあるのだけれど、加熱しすぎた結果、時として罵詈雑言の嵐になってしまっていることも多い。

もちろん、当事者は責められるべきだ。しかし、攻撃対象を得たかのように嬉々として正義を語るのは、少し違うのではないかと思う。

そこには、当事者意識がないからだ。自分は果たしてふだんから他者を尊重できているだろうかと自問をしてみるように、己のこととして考えられていないからだ。

秘書に暴言暴力を浴びせかけた女性政治家が問題になったように、決して女性=被害者とは限らない。女性が男性に対して尊厳を踏みにじることだって大いにあり得るし、同性間でも起こりうることだ。

そのことを考えずに、外野のひとりとして「よくない」「ダメだ」とばかり思っているだけでは、決して全体として良くならないのではないだろうか。

男性であっても、女性であっても、そのどちらでもなくても。高齢者であっても、子供であっても、障がいを抱えている人であっても、そうでなくても。日本人でも、他国の人でも。どういった人であっても、自分よりも上や下だということは、決してない。

わたしは、相手のことをひとりの人間として尊重できる人でありたい。まずは、そこから始まるのではないかと思うのだ。

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